2011/12/31

年の瀬/LET IT BE...NAKED

 年末である。毎年同じことを言っているような気もするが、あっという間に一年が過ぎてしまった。今年は、Kが産まれて家族が増えた。それに尽きる。三週間弱だけど休みも取れたし、やはり、プライベートな部分が非常に大事だなァ、それを犠牲にして何が社会人だ、そんな風に思う。
 一方で、インプットをあまりしなかったような気がする。これもここ数年、言っているような気がする。かと言ってアウトプットは? と言うと、これもまた、あまり。インプットもアウトプットも怠りながら、「充実している」とは言えない。なかなか、難しいものだ。

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 ものを書く、という行為を特別視しているのか。よくわからない。

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 来年はベースを固め直す一年になりそうだ。ボチボチやっていかねば。

2011/12/24

年末です/暇と退屈の倫理学


 以前よりインターネットにアクセスする頻度が減った。一時期、ネット依存症なんじゃないかと恐れたこともあったのだけど、単に新し物好きだっただけで、いまは別になくても平気。依存症なんかではないんだろう。
 思えば、アルコールだって、泥酔してひどい目にあって禁酒宣言をした時期も、Yのつわりの時期も、なければないでどうにかなった。タバコにしても、学生の頃に母に見つかって「あんたは意志が弱いからやめられなくて云々」と言われたが、いつでもやめられるぜ、と思って実際にやめた。
 ネットも酒もタバコも、他にも音楽でも本でもなんでもそうだけど、あればあったでいいし、なきゃないで別にいい。それって満ち足りているからなんじゃない? なんて言われることもあるけど、どうなんだろう。そうかもしれないけど、そういうことじゃなくて、もともとの質なんだと思う。

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 本を読もうと思って、最近いろいろ気にするようにしている。書店でたまたま目にしたのが、國分功一郎氏の名前。「『暇と退屈の倫理学』?おもしろそうじゃない。」
 少しずつ、読み進めている。自分のこういうアンテナの感度は、落としてはいけないと思う。

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 なにかを書くということは嫌いじゃないが、これは自己顕示欲とは少し違う気がする。僕を見て、あたしを見て。そういう欲求。少し、違うかな。ないわけじゃないけど。

2011/12/17

31歳になって/PAST MASTERS


 今月、31歳になった。
 ここ数年は、自分で自分にプレゼントを買ったりとか、休みをとってひとりで過ごしたりとか、誕生日をハレの日と位置づけて過ごすように意識していたのだけど、ことしはそういう風にはしなかった。

 これまでは、おそらく自分の中に20代から30代に近づいていくというある種の高揚感があって、普段とは少し違った風にしてやろう、そんな気持ちでいたのが、30歳を迎えてひと区切りついたのかもしれない。
 昨年は、MacBook Airを買って、カレーを食べて都内を自転車で走り回った。銀座のApple store、幼稚園まで住んでいたところ(アパートは取り壊されていた。)、原美術館、恵比寿ガーデンプレイスのスターバックス。夜、Yと待ち合わせをして、時計を買ってもらった。29歳はけっこうハードな一年だったと記憶しているが、30歳の一年は、そういう初日を過ごせて、非常に充実した日々だったと思う。息子も産まれた。それなりにハードな日々でもあったが、良い日々を過ごせた。
 それで迎えた31歳、何か自分の中で満足してしまったのか、落ち着いた心持ちだった。自分への関心はとりあえずはいいよ、家族へそれを向けよう。そういうことなのかもしれない。

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 アンチエイジング、ということに抵抗感がある。これは以前にも書いたかもしれないが、ことさら自然の流れに反するのは、妙な感じがするのだ。体とか、脳とか、放っておけば衰える。老化を退化と考えるのは難しいところがある。年齢に適正な体、脳、というのがあるのかどうか。脳年齢とか骨の状態とかよく耳にする。そういう科学的? なことはさておくにしても、感覚として、維持しなければならない部分は維持しつつ、しかし過剰に抵抗する、若作り、というのは違うんじゃないのか。
 もしかしたら、男性だから、ということかもしれない。またこんなこと書くとジェンダーがどうとか、オダ君らしくないんじゃない? なんて言われるかもしれないけど、あえてこういう書き方をしてみる。やはり女性にそういう向きが多いというのは否定できない。後は、既婚者とか、子供がいるとか、そういう人と、独身、子供がいない人と、少し感触が違う。
 考え方、感じ方は人それぞれだから別にいいけど、やはり20代の頃の体力と、30代に入ったいまとでは、違うものがある。極端に衰えないようにはしたいとは思うが、受け入れるところは受け入れないと、いけないのではないか。人生は待ってはくれないのだ。
 というわけで、無理のない、ということをキーワードに30代は過ごしたいな、と思っている。似たようなことをずっと言っている気もする。

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 The Beatlesを聴くようになるなんて、昔は考えたこともなかった。そのうち、ジャズとかクラシックとかにどっぷりと浸かるようになることも、あるのかもしれないね。

2011/11/20

結婚式/After The Apples


 妹が結婚した。
 なかなかいい結婚式だった。ついうっかり涙ぐむシーンもあって、案外オレも人間臭い面があるんだなぁ、と自分で自分に驚いた。泣かないでしょう、と思っていたのだ。
 それで、いったいどういうところで涙ぐんだのかと言うと、も何もないのだが、定石の「両親への手紙」。淡々としてて笑いもあって、しかしうまい手紙だった。ずるいなぁと思ったものだ。

 ただ、涙ぐんだ理由みたいなものが、よくわからない。どうして手紙で泣くのだろうか。結婚なんて、哀しいものでは決してなくて、むしろ喜ばしいことだし、よくあるような「妹を取られた!」なんて発想はまるでない。兄妹仲は良い方だと思うが、普段から連絡を取り合ったりはしていない。それにもともと、お家、という感覚が希薄な方なので、嫁に行ってしまったとか、取られたとか、そういう風には考えない。自分たちの結婚のときもそう思っていた。
 でも、そういう場面で涙ぐんでしまうのは、お約束事というか、コードというものなんじゃないか、と考えている。暗転した会場で、スポットライトが新婦に当たる。その中で、「お母さん、あのとき○○でしたね」なんてしみじみ話されたら、あんたそりゃ泣くでしょう、という感覚。その前提でもって臨むものだから、泣かないわけにはいかない。ちなみに自分の結婚式のときも、Yの読む手紙で涙ぐんでしまった。でもやはりそれは、哀しいとか嬉しいとか感情から来る涙ではない。

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 コードに乗っかって泣くのは嫌いじゃない一方で、お涙ちょうだいみたいな話、小説とか映画とかには興味ない。この辺のことは、まだうまく言語化できない。言語化できない、自分の底が見えてしまう、というのはけっこうキツい。でもそのキツさのことに言及すると長くなりそうなので、うまくまとめられそうになったらまた書きたい。何の話だったか。お涙ちょうだいものには興味がない、という話だ。興味がないからといってコードが通じないということではないし、コードが通じるからといって興味がある、好きだ、ということにもならない。
 そんな内容のことは、大学の頃はよく考えていた。直接話題にしたわけではないけど、Sさんともよく話したものだ。その頃はしょっちゅうそんなことを考えていたものだから、たぶんいまより言語化はできていたはずだ。いま、できていないのは、そういう筋肉を使っていないからだ。使わない筋肉はすぐに衰える。
 この日記も、連続しない思考をそのままトレースしているような感じで書いてしまっていて、それでいいのかとも思うが、そうとしか書けない、やれない現在のありのままを、書く。そうして次のステップに進む、進んでいきたい。そんな風に思う。

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 涙ぐんだ、ということは横に置いたとしても、いい結婚式だった。よく考えて作ったんだろう、思いが伝わってきた。パッケージ化された結婚式とは違っていた。パッケージに包まれることは楽なんだけど、面白みに欠ける。面白みに欠ける結婚式があったとしても、泣きのコードが挟まれていれば、多分泣く。でも、面白みに欠けるものを、いい結婚式だとは思わない。
 いいか悪いかというのは、泣けるかどうかということじゃなくて、揺さぶられるかどうかということ。誰かを揺さぶるには、考えることなしでは難しい。
 ともかく。お疲れさまでした、ありがとう。そしておめでとう。妹たちにはそう言いたい。

2011/11/03

人付き合いとか/いやらしさは美しさ


 ○○男子/女子とか、○○系とか、なんというか、ブームっぽい言い回しがどうにも気に食わない。グチグチ批判めいたことを書くのはやめていこう、と思ってはいるので、セーブして書きたいのだけど、どうにもやりづらさを覚えることが多いのも事実なのだ。
 もともと料理は嫌いじゃないし、弁当をつくるのも時間に余裕があるならやりたい方なので、その辺で「オダくんて弁当男子だよね」とか「草食系だよねー」とか、あーもう僕はそういうのはいいんで放っといてください! と言いたくなることも多かったけど、最近はそういう人も周りにあまりいなくなったので良かった。が、この前「オダさんはイクメンだね」と言われて、おおう、と唸ってしまった。世の中いろいろ言葉が産まれるものだ。まあ、料理したり育児したりという男性が少なかったから、いまはそういう人が増えてきて、ということなんだろうけど、早くそれが当たり前の世の中にならないものか。ならないかな。

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 やりたいこととか言いたいことと、人付き合い、世渡り、みたいなことはなかなか一致しなくて、でもそういうことが一致したり、うまくやれる人はそれなりにいるはずで、どうして我々はうまくできないんだろうか、ということを大学時代にSさんと話したことがある。
 詳細は忘れてしまったけど、音楽を聴いたり本を読んだり、ということと絡めた内容だった気がするけど、言いたいことが先行したりする人、人付き合いで悩んだりする人が音楽とか本とかにいくわけで、そういうのに悩まない人は音楽や本がなくても生きていける。
 僕は音楽や本に救いをもとめる触れ方はしてこなかったのだけど、たぶん人付き合いとかがうまくやれる人だったら、音楽の聴き方も違ったんだろうな、と思う。というか聴くこともなかったかも知れない。
 早川義夫氏の日記を読んでいると、ああこの人も、生きづらかったんだろうなあと思ってしまう。いつかライヴを観てみたいな。しばらく難しそうだ。

2011/10/09

能動性を取り戻せ/The Velvet Underground


 久しぶりに体調を崩した。いや、久しぶりというほどのことでもないかもしれないけど、どうもそんな気がする。都合の悪いことは忘れる。近く崩したことがあるかもしれないが、遠い昔のことと思う。
 最近は、まず喉に来る。次に鼻水、咳、最後に熱。熱はいったん引いてもぶり返すこともあるから、油断できない。年齢、ということなのかもしれないけど、年齢のせいにする前に己の生活を見直すことが大事。昔は風邪なんてひかなかった、というのは簡単だけど、運動もしてたし休息も取れていた。栄養バランスも、まあ実家にいた頃は少なくともばっちりとれていたはずだ。免疫とか、抵抗力とか。
 いろいろなことが曲がり角だ。見直す必要がある。


 Sさんと、音楽を聴かなくなった、という話をした。iPod touchで聴くには聴いているが、それは「聴く」ということとは、些か異なるように思う。
 K夫妻からDIATONEのスピーカーを譲り受け、Luxmanのプレーヤーとアンプを買って、小さなステレオ環境を作った。プラグとか電源とか、配置とか、こだわればいくらでもこだわることができるのがステレオ世界の怖い罠で、どの辺まで、というのがよくわからないが、とりあえずそういうことは抜きにして、セットした。それだけでもずいぶん違うと思った。お金をかければいいというものではないが、何かをするためには、ある程度の投資というか、対価を支払う必要があると思う。身体感覚とでもいうか、「身銭を切る」とはよく言ったもので、痛みを伴わない行動は、自分の中で軽いものになってしまう。
 お金の話は今回の話題とは直接関係ないのに書いてしまった。お金については少し前にも自転車の話の中で、触れた。こういうところが、良くも悪くも自分の特徴で、思いつくままに書いたり話したりしてしまうから、飛躍がある。あるいは脱線する。
 話を戻すと、iPodだ。iPodだとシャッフルの機能がついているからいいと思う。それなりの容量があるから、適当に曲を詰め込んで、シャッフルさせてランダムに聴く。でもそれは、能動的に見えて受動的だ。音楽を聴く、ということは、能動的であるということだと思っている。本を読む、映画を観るのに、受動的にはやりづらい。というか、能動的でないと、流れていってしまうだけだ。音楽も同様のことと思う。だから、垂れ流す聴き方ならiPodは便利なのだけど、ちゃんと聴くにはミスキャストだ。
 それでいいときもあるのだけど、自分を甘やかしている感じがするのである。


 体調は崩してしまったが、時間ができた。料理なんかして、ステレオで音楽なんか聴いて、ゆっくり何かを考える。カメラを買ったので、研究してみるのもいいかもしれない。

2011/10/01

片付けたり/ダカフェ日記


 今日は10月1日、都民の日だ。都民の日、なんて言ったって都民じゃない人には関係ない話だろうし、もしかしたら「何それ?」なんてことになるかもしれない。では、都民である自分にとっては、それはどういうことかというと、やっぱりあまり関係ない話なのだった。
 10月1日が自分にとって意義のある日だったことは、もしかしたら中学時代くらいまでさかのぼるしかないのかもしれない。或いは、高校の頃? 高校は都立の高校に通っていたので、もしかしたらその日は休みの日だったのかもしれないが、いずれにしても、就職して働きだしてからは全然関係ない一日になってしまった。しかし子供がいると、その子が入学したら、休みを取ってどこか旅行に行くとか、そういう日になっていくのかもしれないな。


 都民の日、ということとはまったく関係ないのだけど、今日はやることが詰まっている。やることがない日はここ数週間の間には全然なくて、職場にちょろっと行ったり、都心まで買い物に行ったり、実家に帰ったり、Yの実家に行ったり、部屋を片付けたり部屋を片付けたり部屋を片付けたり。今日もやっぱり部屋を片付けなくてはならないのだ。いよいよ後がない。
 それなのに、日記なんか書いていていいんかな? という気持ちはあるのだけど、こういうときこそ落ち着いて、日記だ。
 思えば自分の日記の歴史も長い。ウェブ上で日記を書くようになって、10年くらいだろうか。この前Sさんとも話をしたのだけど、書く場所はちょこちょこと変わっていて、変えた理由は、そこのサービスが終ってしまったり、リニューアルしてデザインが気に入らなくなったり、単純に、変えたくなって変えたり。それでも飽きっぽい自分がここまで続けてきたのは、単なる自分だけの日記ってことではなくて、誰かに読まれて、ときにはリアクションがある、ということの面白さによる。だから手書きの、ノートに書くような日記は続かないし、昔書いたものを読み返すとあまりの客観性のなさに、憤死しそうになる。どこまで行っても自分自分自分、なんだもの。かといってウェブ上の日記は客観性を持ち得ているのか? という問いには、「残念ながら、まだまだです」と答えざるを得ない。まあ所詮はアマチュアの日記なんだけども、もっとこう、志を高く持っていたいものだ。

 新聞を読んで、片付けをして、ごみをまとめて。掃除機かけて。ぞうきんかけて。ただ当たり前にやろうとすればやれるはずのことを、後回しにして週末や月末や特定の日にまで引っ張ってしまうのは悪い癖だ。T氏の日記に、早起きをして片付けをして、みたいなことが書いてあって、彼と自分は全然違うタイプだけど何か通ずるところもあって、見習いたいことは多くある。で、よく、「自分にはできないなー」なんて言って逃げちゃう人がいるけど、おそらく自分にもそういう傾向はあるのだけど、そういうのは恰好悪いな、と思うようになった。恰好のいい悪いの問題ではないのかもしれないが、多分だいたいのことは、できない、ということはない。何も100メートルを10秒で走るとか、英語でビジネスに臨むとか、そもそものスキルを問われているわけではなくて、朝の時間に部屋を片付けるとか新聞を読むとかは、気の持ちようだ。実際、久しぶりに弁当を作ってみて、ああ意外にできるもんだなぁと気持ちを強くした。
 というわけで、これからは少しずつ実践に移していきたいのだけど、とりあえず、今日だ。
 天気がいいのでとっと終らせて、自転車に乗りたい。

2011/09/25

料理をしていない/INLAND EMPIRE


 実家には26歳まで住んでいた。と書いて、本当に26歳まで住んでいたのか不安になった。
 就職していろいろな人と出会って、その人が誰と同期なのか、とわかっていると覚えやすいということもあって、「何年目ですか?」と訊くようになったのだけど、「あれ、オレ何年目だっけ?」と言う人が多くて驚いた記憶がある。でも、自分もだんだんと「あれ、オレはいま、就職して何年目だっけか?」と思うことが多くなり、記憶力ということもあるのだろうけど、何というか、いろいろなことがどうでもよくなってくる、ということなのかもしれない。憶えていなければいけないこと、憶えておくべきことを取捨選択する。すると、どうでもいい、と思えることが、存外、多い。
 それで、ひいふうみい、と数えて、確かに26歳まで実家にいたのだと思い出した。それから2年ほどひとり暮らしをして、結婚した。結婚して3年目で、ことしの誕生日で31歳になる。あっという間だ。
 実家にいた頃は、早く家を出たくて仕方がなかった。理由は、こう書いてしまうとひどく凡庸に響くが、自分でいろいろなことを決めたくなったのだ。自由が欲しい、ということもあったのだろうけど、それ以上に責任を持ちたかった。だから、結婚して、よく「自由がなくなるんじゃないの?」なんて結婚懐疑論者の人から言われることがあるけど、自分にとっては別にそんなことは大して重要じゃなくて、確かに自由度は減るかもしれないけど、責任はある意味においてはひとり暮らしの頃以上に重くなるので、そう考えると結婚生活は楽しい。

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 この前の後輩の結婚式のあとに、何人かと二次会に行った。そこで、ひとり暮らしだと、自炊をしない方がリーズナブルだという話があった。コストという観点からすればそうなのかもしれない。でも、それって楽しいのだろうか。彩り、栄養、料理の中身についてはもちろん、食材の調達から調理から片付けまで、考えることは多い。それを組み立てる、というのは、生活の組み立て、の縮図とも思える。だから、コスト、ということだけで料理をしないというのは、なんだか自分にとってはひどくつまらない。
 でも、最近、あまり料理ができていない。Yが実家に帰っていて、いまは実質ひとり暮らしのようなもの。でも自分もYの実家で食べさせてもらうことが多く、そうすると台所から遠ざかってしまう。料理をしないと楽かもしれない。でも、つまらない。

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 David Lynchの映画は難解だと言われるが、そうだろうか。解釈しようとすると、難解、ということになってしまうのかもしれないが、絵画を観るようにして観ると、また、音楽を聴くようにして観ると、そうは思わないんじゃないだろうか。
『INLAND EMPIRE』を観て、思索に耽る。傍らには珈琲。

2011/09/24

ロード/磯江毅=グスタボ・イソエ マドリード・リアリズムの異才


 S氏に「最近どう? ブログ読んでるとストレスたまってるように見えるんだけど?」と言われ、ハッとしていくつか前までさかのぼって読んでみたら、確かに心配されても仕方ない様子だ。特に何があったわけではない……とは、書かない。現代社会を生きるにあたって、ストレスは全くありません、たまりません、なんて言えるとはさすがに思っていない。多かれ少なかれ、何らかの形でストレスは受けるしたまっていく。ただ、それをうまく逃がすとか、なるべく表に出さないようにすることが好ましいとは常々思っているので、意識しないところで他者にそれを感じ取られてしまうというのは、不本意というか、まずいレベルに達していたな、というところだ。
 元々、テンションは低い方だ。根が暗いというか。だから、書く文章もふっと気を抜くと低い方、低い方へと引っ張られてしまう。それが味になる場合もあるのだけど、ストレスがひどい状態のときは相乗効果で、まずい低さを表出してしまう。その辺は、これからの課題なのかもしれない。職場でも「大丈夫?」なんて訊かれてしまう始末。「大丈夫じゃないですよー。」なんて言う顔の目は、笑っていない。これはまずい。
 まあ、この間、いろいろあった。仕事は仕事で相変わらず忙しいし、8月には家族も増えた。後輩の結婚式にも出た。仕事があるということはいいことだし、家族が増えることや結婚式なんかは、喜ばしいことだ。ただ、もちろん物事はそう単純な話ではない。単純ではないのだけど、その単純でなさを、単純に表に出してしまうことのまずさ。そんなことを、この数日を振り返ってみて、考えたのだった。

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 一日一日の暑さは去年ほどではないにしても、なんだかだらだらと暑さの残る夏だった。それもここ数日で、だいぶ和らいだ。というか、急に涼しくなった。もう秋なんだ。今日は空気がぴりっとしていて、晴れている。こんな日はロードバイクにでもまたがって、どこかに出かけたくなる。
 後輩の結婚式で、久しぶりに会った友人に問われた。「たかだか自転車に20万も出すなんて気が知れない。よっぽど稼いでんだね。」酔っていなければ、あれこれ理屈を付けて説き伏せたのだろうけど、そのときはそういう状態じゃなかったので、「まあ、人生の何にプライオリティを置くかってのは人それぞれだからね。うん。」なんて言って済ませた。
 乗ってみればわかるのだが、いい自転車はいい。所有欲からくる満足感がないとは言わないけど、きちんとつくられたものに対して、相応の対価は支払わなくてはならない。Tシャツが千円もかからないで買えてしまったり、ブランドのロゴが入ったペラペラのシャツが数万円したり、はたしていまつけられている値段そのものは適切なのか? という疑問が生じるとしても、本人が一応納得した上で購入するのであれば、それは適正な価格なのだ。1万円もしないで買える自転車に、20数万円? いいじゃないか。そもそも、数千円の自転車と、ロードバイクは別物なのだ。
 ただ、ロングライドは未だにしたことがなくて、もっぱら1時間もかからない範囲でのロードライフだ。近所の美術館とか、そういう乗り方は少しもったいないかな、と思わないでもない。

2011/08/31

諦観/夜想曲集


 そういえば、ずいぶん前に読んだ小説がけっこう良かったのだけど、その頃、日記が停滞していたので、タイトルに挙げていなかった。とはいえ、別に書かなかったといって、何か問題があるわけでもない。気分の問題だ。
 本を読むペースと、日記なんかを書くペースは必ずしも一致しない。ペースというか、サイクルということのような気もするけれど、ともかく、何かを読んでそのことについてすぐさま何かを書くということにはならないのだけど、一方で、自分が何かを書きたい、と思うのは、何かしら刺激を受けたときのことだ。書きたい、という気持ちと、書くという行為には何かしらの連関があるのだろうと思うが、気持ちが行動の原動力のすべてではない。コンディションとか、状況とか、その他様々な要因が働く。
 そんなことを書くと、「言い訳ばっかりして甘えてんじゃないよ!」というようなことを言われかねないが、誹られても別にいいという気持ちでもある。言い訳も、場合によっては必要なんじゃないか。

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 しかしグダグダとそんなことを書いていても仕方がないので、次に進む。
 カズオイシグロという作家のことは、名前くらいしか知らなかった。Yがいいと言っていたので、気にはしていたのだけど、どうにも食指が伸びないでいた。あるとき、NHKで彼の特集をやっていた。普段、テレビ番組はほとんど見ない。ついていれば見る。しかし、見ているとあっという間に時間が過ぎてしまって、いけない、と思うのだ。面白い、刺激になるものなら、見て良かったと思えるが、だいたいが後悔する。これはどういうことなのだろう。
 その日は、やはりYが見たいということで、テレビをつけた。『わたしを離さないで』という作品をひとつの軸にした、カズオイシグロのドキュメンタリーだった。結果的には、見て良かったと思った。その内容についてはここでは触れない。ただ、彼の作品を読んでみようという気持ちになった。
 そこで、まずは短篇から読んでみるのが良かろうと思い、この作品を手に取ったという次第。

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 長篇を読んでいないので言い切るのは難しいが、カズオイシグロは、諦観、ということを書いているのではないかと思った。人生の、どうしようもない状況。そこに直面したときに、人はどうすればいいのか。諦める、というのは、何も悪いことではない。むしろ、そういう状況を受け入れる、そうして初めて次のステップが踏める、そういうこともあるのではないか。
 諦める、ということを、最近強く意識している。

2011/08/27

書かなかったことについて書くのは/小説の誕生


 ちょっとまた忙しくなったりして、というか余裕をなくしていたということなのかもしれないけど、しばらく日記から遠ざかっていた。いまは、と言えば、一時期よりは落ち着いたのだけど、それでもこの30年間の中で見ると忙しい方である。本当は日記なんて書いている場合ではないのかもしれない。でも、「あ、そういえば書いてないじゃん。」と気付いてしまって、気付いたらなんだか書かずにはいられなくなってしまった。
 それで、何を書こうか、書かなかったことを書こうか、と思うのだけど、たいてい自分は日記の更新の間に時間が経っていると、これこれこういう理由で書かなかった、とか、書かなかったのはこういうことで、などと小理屈を付けたがる。そういうことを考えるのは嫌いではないし、書くとすっきりするのだけど、読み手の側に立ってみると、鬱陶しくて仕方がないのではないか。一度や二度くらいならともかく、「ああ、また言い訳してらあ。」などと思うだろう。
 実際にそう思う人がどれくらいいるかは分からないけど、自分はいま、そういう風に思った。思った自分を偽ってはいけない。言い訳は、もうやめよう。

 *

 一ヶ月ぶりに書く日記で、これまで期間が開いてしまった理由(=言い訳)を書かないとなると、どういう話題が適当なのだろうか。

「最近は、人間関係の煩わしさを考えている。」

 そんなことを書いてしまっていいのだろうか。いいも悪いも、これはあなたの日記でしょう、とささやく自分がいる。しかし、読み手の立場っていうのも考えないとね。そんなこと書くと、不快にさせちゃうんじゃないの? そう言う自分もいる。いや、それは読み手の立場を考えているように見せかけて、結局は、読み手からどう見られているか、ということを考えているんだろう、つまり、自分がどう見られているのかを気にしているだけなんだよ。そう断言する自分もいる。もう、何がなんだか分からない。
 確かに、人からどう見られているか、ということは気にしているのだろう。「人間関係の煩わしさ」というのも、或いはその辺りのことと連関があるかもしれない。と、強引に話をつなげてしまったので、このまま続ける。
 人は、社会生活を営むにあたって、多かれ少なかれ、役割を演じる。意識するしないに拘らず、自分の振る舞いを自分でプロデュースする。そこで完結するのなら分かりやすい話なのだろうけど、社会生活なのだから、完結するわけがない。関係性が生まれ、複雑になる。自分がこう振る舞ったら、相手がこう反応するだろう、そうしたら次は自分はこうして、と、相手への期待が生じるのだ。
 そういうのが得意な人もいるのだろう。演じて、期待して、さらに演じて。でも、自分なんかは人からよく思われたい気持ちもあるが、面倒くさがりでもあるから、期待されていることを感じてしまうと、途端に嫌になる。ここで打ち止めでいいよ、面倒だから。そんな風に思ってしまう。期待しないでいいからさ。
 もっとこう、フラットな関係性はつくれないものだろうか。裏読みしたり、先の先を考えたり。そういうことじゃなくて、もっとフラットな。

 *

 思考することからも遠ざかっていた。もっと腰を据えて考えなきゃならない。友人Sを見習って、もっと思考するのだ。

2011/07/29

言葉にしづらさ/あぜ道のダンディ

 大掃除の時期でもないのだけど、本を100冊ほど処分した。殆どが文庫本で、未読のものも多かったが、おそらく今後も読むことはあるまい、と思って、手放すことにした。
 もともと収集癖のようなものはあったのだが、執着心は少ない。溜まるのはアッという間だが、決めたら手放すことも早い。だったら初めから買わなければいいんじゃないかとか、熟考して買えばいいのにとも思うのだけど、たぶん、買う、ということ、所有する、という過程が大事だったのだ。買うまでのプロセスを経ることが大事で、一定の期間の経過により、その意義は達成された。さようなら、私の本よ。

 *

 ところでこの前、久しぶりに映画館で映画を観たのだけど、映画館で映画を観る、というのは、何か不思議な体験だなぁと思った。すこし前ならそんな風には思わなかったのだろうけど、いまや映画はダウンロードして自宅で観ることのできる時代。あるいはスマートフォンで。それが、わざわざ映画館に足を運んで数時間。「どうしてそんな不便なことを?」と問われたとして、そう訊ねる人にうまく答えられる自信はない。
 映画自体は非常に面白く、同年代の監督がこういった作品を撮るということに感銘を受けたし、焦りも覚えた。ストーリーや、その他のディテールなんかについて、考えることも多い。
 でも、そういうこととは別に、映画館で映画を観る、ということを客観的に考えると、実に不思議だな、と思うのだ。
 ただ、その不思議さは、どうにも言葉にしづらい不思議さだ。言葉にしづらい、ということを表明するのは、勇気がいる。

 *

 感情を表現できないもどかしさや、何かに苛立つことなど、かつて感じたことのない変化を感じるようになった。それを表すのに、老化、あるいは退化? という以外に言葉を知らないのだけど、受け入れられるようにはなったので、それはそれで進歩なのかもしれない。
 立ち止まることは避けつつ、折り合いをつけなくてはならないことも、あるだろう。

2011/06/26

わかり合えないこと/顰蹙文学カフェ

 よく思われたい、評価されたい、という感情。自己を肯定してほしいという気持ちは、普遍的なものなのだろうか。程度の差はあるのだろうけど、多くの人は持っているだろう感情。自分の中にも、ある。
 ただ、誰も彼もが自分のことをわかってくれる、評価してくれるなんてことはあり得ないことだ、幻想だ、とも思っている。多様な価値観がある中で、全ての人に受け容れられることがあるわけがない。好みもある。ただ、そのあたりの認識は、個々人によって異なるだろう。

 *

「わかる人にだけわかってもらえばいい」となるのか、「それでもなお、万人に認めさせてやる」となるのかは志向性の違いだから置いておく。でも、「わかってもらえないこともある」という感覚を持っているということは、非常に大事なんじゃないか。
 受け容れられないこともある、と認識することは、なかなかハードルが高い。早川義夫の本に「わかり合いたかった人とわかり合えなかった寂しさに比べれば、独りでいることなどちっとも寂しくない」という記述がある。
 独りでいるのが耐えられないという人もいるが、早川さんは、独りでいることよりわかり合うことの方が大事だし、そうならなかったときの痛みの方がはるかに大きいと考えている。
 自分にとっては、独りでいることは、淋しいことではない。「それはオダくんが本当の“独り”というのを知らないから言える台詞だよ。」そう言われたらそうなのかもしれないけど、想像してみても、独りの状況は、さほどつらいものではない。
 では、わかり合えない淋しさは、どうだろう。わかり合うことの難しさを前提としていれば、それも大した話ではない気もする。つまりは期待を裏切られたことの辛さ、ということなのではないか。わかり合えるはずだという、期待。

 *

 顰蹙を是とする姿勢は、或いは、わかり合うことは難しいとした上で、評価されたいと思うことと同義なのではないか。
 いずれにしても、あざとさは残る。

2011/06/19

書くことに対しての気持ち、距離/RE:SUPERCAR 2

 波の触れ幅が激しくていけない。
 波? 何の? いろいろあって、気持ちも体調も、プライベートも仕事も、まあいろいろだ。そういう、波の悪い状態のときは、日記なんて書いてられん! という風になるし、逆に良くなってくると日記を書いていないことに対する罪悪感、と書くと大袈裟になってしまうが、自己嫌悪と言うのか、だめだなあ、という気持ち。もっと気楽にやれば、と書いたばかりなのにね。という気持ち。

 *

 スーパーカーというバンドが好きだった。いまは、インターネットがあっていろいろなハードルが低くなって、良い意味での妄想、空想の領域が、ある意味に於いて、なくなってしまった様に思う。多感な時期に触れる、ロック音楽についての気持ちというのは、空想や妄想の部分が大きいのではないか。
 いまはそういう部分とは、少し離れた地点から、音楽を聴いている気がする。

2011/05/28

弱気/日常で歌うことが何よりもステキ

 疲れたとか忙しいとか、泣き言めいたことを日記に書くのは良くないな、と思ってはいるのに、つい気が緩むと、そういうことを書いてしまう。昔からの悪い癖だ。
 考えすぎて、考えずにそんな風になってしまうのかな、ということを思った。

 どうしても理念先行、というと恰好よく聞こえるかもしれないが、要は理屈を付けるのが好きで、あーだこーだと考えて、疲れて弱音を吐いてしまう。もっと気楽にやればいいのに、軽やかに書いた方が読んでる人も気が楽だぜ、そんなことも思う。
 短くてもいいだろう。(元々ないけど、)起承転結がなくてもいいだろう。とりあえず、書いてみよう。

2011/05/21

加齢?/若き芸術家たちへ

 自己啓発書だとかビジネス書の類いには全く興味がないし、そもそも仕事で自分を高めるとか、厳しい環境に身を置いて、なんていう高い志は全く持ち合わせていなかった。自分の生活が最優先で、楽しく働ければそれでオーケー、そんな構え。しかしどんなことでもそうなのだろうが、いいときもあれば悪いときもある。順調なときもあれば不調なときもある。きつい時期もあったけど、それなりに楽しくやってこれたたのも事実で、そもそも自分は物事を途中で投げ出す様な性格ではない。客観視も、それなりに出来るつもりだし、いまの仕事は自分のみの丈に十分合っている、そんな風に捉えていた。
 しかし、現在。30歳と5ヶ月。どう考えても自分のキャパシティを超える仕事量について、どう携わっていくべきか、なんてことを改めて考えた。いまのやり方では、ちょっとこなせない。こなせたとしても、それは生活に影響してくる。なんせ朝、起きられない。大して酒も飲んでいないのに、金曜の午後なんて眠気か疲労か、動きが急激に鈍くなる。

 また、妙なタイミングもあったものだと思うけど、先日の職場の飲み会で、先輩にこんなことを言われた。
「オダ君がどうって話じゃなくて、普通に思うんだけど、残業するやつって日中、大してまじめにやってないんじゃないかなって思うんだよ。俺は子供と遊びたいからさ、時間内で終る様に、必死にやってるよ。効率化も進めたしさ、ただ、評価されないけどね。残業してりゃ偉いって変な風潮だよな。」
 お酒の席だし、どんなに一生懸命やったって終らないだけの仕事量が振られてる、ってこともあるんじゃないですか? なんて内心思ったのは事実だけど、一方で、確かに自分は日中一生懸命やってるかな? なんて考えると、立ち止まってしまう。無駄なく全力で、とは到底言えない仕事ぶりだ。隣の席の人と馬鹿話もするし、無駄な作業もよくやってると思う。全部が全部無駄ではなくて、むしろ必要悪というか、そういう面もあると思う。でも、全部が全部必要なわけじゃなくて、勿論無駄な部分もある。ちゃんと向き合えば、もっと残業時間だって減らせるだろう。
 
 最近の自分の生活リズムと、先輩の話が相まって、すぐ本に向かうかどうかは別として、仕事のやり方について考え直さないといけないなぁと思った。

 *

 この4月から3歳年下の女の子が異動してきて、隣の席で引き継いだり仕事を教えたりしている。たかだか3歳しか違わないのに、何か大きなジェネレーションギャップを感じる。向こうが若いのか、自分がおじさんなのか。
「最近、肩が異常に凝るんだよね。」
「えーあたしも異動してきてヤバいんですよ。運動不足っていうか。また走ろうかな、って思うんですけど。」
「走る?」
「え、ちょっと前に流行ってたじゃないですか。でもいま放射能とかあってやめとこうかな、って走るの自粛してるんですけど。」
 走るのが流行ってたってことも知らないし、放射能を気にして、走るのを自粛する、って感覚も面白いなと思った。まあ、それでどうこうってことでもないけど、若者はわからない、なんて話につなげることは避けたい。それこそ精神の加齢。

 *

 本を読んで頭を休める、ということより、本を読んで頭をストレッチ、という考え方をしていたい。

2011/05/07

刀/I LOVE HONZI

 部屋の片付けをしていて、古いアルバムが見つかった。幼少の頃の写真。自分で言うのは甚だ寒いのだけど、子供の頃の自分は女の子に間違われることが多く、確かにかわいい。いまはただのおじさんになってしまったが。それで、今回も同様に「子供の頃はかわいかったんだがなぁ。」なんて言いながらYとアルバムをめくっていたら、「でも、なんかニヒルというか、ちょっと陰のある笑い顔が多いね。」と言われた。陰? そういわれると、確かにそんな風にも見える。
 また、いまでは全然そんなことはないのだが、内気というか内向的な性分で、目立つことは嫌いだし、注目されるとカーッと赤くなって俯いてしまう様な小学生だった。外で走り回るより、家で本を読んでいる法が好きだった時期もあった。(それはいまでも変わらないが)。
 その片鱗は、子供の頃からあったのだろうか。

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 以前、別の場でも書いたのだけど、友人と話をしていて、ダークサイド、という話題になったことがある。要するに、自分の中には暗い部分、ダークな面があるよね、という話で、Sと自分だけがその話題で盛り上がり、ほかの友人はポカンとしていた。
 暗いとかダークという単語になると、あまり良い響きは持たない。でもそのときはそういう展開にはならず、何というか、単にそういうこと、そういう状態だ、というニュートラルな視点。青い、赤い、黄色い、とか、右と左、ということと同じで、明るいとか暗いということを見つめる。そのこと自体はいいとか悪いとかじゃない。もしかしたら記憶が混濁していて、ニュアンスがねじ曲がっている可能性もなくはないのだけど、そんな内容だったと記憶している。そして今でもそれはそうだろう、と思っている。

 ただ、他の友人たちの様にポカンとしてしまう感覚もわかる。わかるというか、それが当たり前の感覚なのだろう。ニヒルな笑いは、ときに人を不快にさせる。批判的な意見は、ときに人をいら立たせる。そのことを踏まえていないとコミュニケーションも何もないのに、時々自分はそれを忘れてしまう。うっかり、無防備にそれを出してしまう。

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 また、こんな風に書くのは寒い感じもあるが、自分の感覚は刀の様なものだと最近思っている。初めはナマクラだった。でも、鈍器として使うことも出来た。人を傷つけるときは鈍いダメージを与えた。決して鮮やかではない。それで、そのうちその刀を研いできれいにすることに夢中になった。
 もしかしたらペーパーナイフの様なものかも知れないけど、いまではある程度スパッと斬れるくらいまでにはなったと思う。でも自分はそれを人に向けて使いたいのではなくて、何と言うか、単にきれいに仕上げたかっただけなのだ。でも、ときには人に向けざるを得ないこともあるし、思いがけず斬ってしまうこともある。それは本意ではない。
 自分をコントロール、ということも以前書いた。コントロールしないといけない。自覚して、その刀を使っていかなくてはならない。そんな風に思う。

2011/04/30

やる気がない/人それぞれのマイウェイ

 中学生から高校生にかけて、X JAPANやhideが好きだった。その頃、叔父と酒を飲みながら「X(JAPAN)はずっと聴き続けると思う。」と言ったら、「そんなことはないんじゃないの。時期によって聴くものは変わると思う。」という返しを受け、ムキになってやり取りをした、なんてことがあったが、大学に入ってしばらくするうち、hideは聴くことはあってもX JAPANについてはあっさり聴かなくなってしまい、そのときのやり取りを思い返して苦笑したことがある。

 ある時期は椎名林檎やSUPERCARなどの日本の若手のロック音楽を聴いていて、ある時期は70年代頃のプログレや前衛ロックを聴いていた。イギリスや、ドイツ。常に、ロックとは何ぞや、なんてことを考えていて、「頭」で聴いていた節もあるけれど、基本的にはロック音楽が好きだということなのだと思う。好き、という言葉が適切かどうかはよくわからないのだけど、ほかに妥当な言葉が見つからないので、こう書く。暇を見つけてはレコード店に通っていた。

 *

 最近は何もすることがなくて困っている。連休も、どこに行こうという当てもない。友人と会う約束はしたのだけど、せっかくだからどこかに旅行に、という気持ちにもならない。ただこれは世間の自粛ムードとは全然関係なくて、単に無気力ということで、以前からその気はあったが結婚して30代になってますます拍車がかかってしまった。やる気がない。自分のことをこう評したのは友人Sだ。的確です。

 それで、音楽を聴いているのかというと、それも少し停滞気味なのである。家では殆ど何も聴かなくて、通勤の電車の中でiPodで聴くくらい。それも新しいCDを買うことが少なくなってしまったので、持っているものを反復して聴いている。吉井和哉とか、曽我部恵一とか、90年代、まさしく自分が中高生の頃に活躍していた人たちの、いまの音楽を聴いているのだ。もう、30代で、新しい音楽を開拓するというよりは保守路線に傾いてしまうのかな、なんて思うと哀しくなる。が、無理をして出会いを求めるというのも疲れるので、しない。
 そういう流れの中でいま、どうなったのかというと、笑ってしまうがX JAPANをたまに聴く様になってしまったのだ。これには少し自分でも意外なことで、大学の頃は彼らのことを、少し馬鹿にするというか、過去のこととしていたのだけど、いま聴いてみると、分析的に聴くことが出来て、少し面白いのだ。メロディラインとか、アレンジとか、アルバムとしてのバランスとか、当時の自分がどういう風に熱中していたかとか、ヒットした曲としなかった曲の対比とか、いろいろ考えながら聴いてみると興味深く聴ける。

 *

 世間の方々のことを思うと、すごいなとも思うし、自分が情けなくなることもある。よく、そこまで活発になれるものだな、よくやるなあ、と。自分は自分でいろいろウジウジと考えたりはするものの、面倒だ、という思いから、何もしない。
 まあ、人には人それぞれのマイウェイというものがあるのだ。やる気がない人にはやる気がない人なりのやり方ってものがあるのだ。無理はしない。無理は強要しないでほしい。そう思う休日の午後。

2011/04/23

コミュニケーションをとる/希望の国のエクソダス

 新しい年度が始まり、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。その少し前、3月に大きな地震があって、いろいろなことが変わってしまった。生活環境などもそうだけど、意識のありようもまた、大きく変わった。テレビや新聞、インターネットでも多くの言説を目にした。その中で、何かを考えないことが出来ただろうか。少なくとも自分は、地震について、生活について、考えるということについて、何とはなしに考えていた。この日記にも、少し書いた。
 そういうこともありつつ、しかし地震とは関係なく、仕事は仕事で進行していく。自分の異動はなかったが、新しい人が入ってきた。引き継ぎながら、引き継がれながら、引き続き担当する仕事もこなさなくてはならない。めまぐるしい一ヶ月だったなぁ、と振り返るのである。

 *

 仕事の根幹をなすものは何か、と考えたときに、コミュニケーションである、と思った。これは普段から漠然と思っていたことではあったのだけど、自分が担当していた仕事を引き継ぎ、また、他の人が担当していた仕事を引き継がれる中で、強く思ったこと。
 就職してから5年が過ぎて、いまの職場に異動して2年が過ぎた。仕事にある程度慣れてくると、暗黙の了解、コードというものが身に付く。コードを有する者同士では、いちいち説明することなく、コミュニケーションが成立することが多くなる。それは仕事をする上では非常に重要なことなのだけど、それには、お互いが共通のコードを有している、という前提が必要となる。仕事の引き継ぎをすると、相手がコードを有していないこともある、というか、コードを有していないことの方が多い、ということを強く意識する。あるいは、限られたコードしか有していないということもある。

 これは仕事に限ったことではなく、日常生活を送る上でもよく踏まえておかなくてはならないことではないか。つまり、相手がどういうコードを持っているのか、持っていないかも知れない、ということを前提として、コミュニケーションを図ること。同じ職場である、同業である、同郷である、同じ国籍を有している……。そういうとき、つい、距離が縮まったと思ってしまう。共通のコードを有していると思ってしまう。でも、そうでないかも知れない。そうでなかったとき、かえって面倒なことになるかも知れない。思い違いや、すれ違いや、衝突が起こるかも知れない。相手を不愉快にさせてしまうかも知れない。自分が日々面倒だなぁと思うことは、そういう摩擦だ。
 でも、いちいち説明を重ねることは、面倒だ。というか、無駄だ。ポイントは、どういうコードを持っているのかを探りながら、状況に応じて変えていく、スムーズなコミュニケーションを図るということなのだと思う。

 *

『希望の国のエクソダス』という本は村上龍の作品の中で気に入っている部類で、よく読み返す。テーマというか、作者が言いたいことは多岐にわたっているのだけど、自分がこの作品を思うときに思い起こすのは、序盤で、中学生の少年が主人公に対してこんなことを話すシーンだ。
 自分が言いたいことがある、ということを相手に伝える、ということがわかるか。コミュニケーションが成立するのは、そういうことが前提として成り立っているからで、例えばいじめを受けている人は、基本的に相手から無視されているから、伝えたいことがある、というところから始めなくてはならない。
 いま、手元に本がないので詳細は再現できないのだけど、「伝えたいことがある、というところから始めなければならない」ということが、非常に強く心に残った。

 何となくのコミュニケーション、簡潔なそれに抵抗感があるのは、そういうことなんだなぁと、また改めて思ったのである。

2011/04/06

つれづれ/マーラー

 悪態をついたまま、また日記を放置してしまった。
 どうしても感じのいい人になれないものだなァ、と自分の日記を読み返すと実感するが、そういえば、先日、違う部署の人から「あ、オダさんて怖いってウワサの?」と言われた。怖い? いったいどういうことだろう。その人とは直接話したことはなかったので、文字通りそういうウワサが流れているということなのだろうけど、そのルートがわからない。たまに厳しいことを言ったりもするが、職場では感じのいい人を演じているつもりなのに。あるいは、いわゆる「怖い」ではなく、もっと違う意味の「怖い」なのかも。
 まあ、その話はとりあえず置いておくとして、自分の根本は批評……とも言えないレベルの、悪態つき、ということなんだな、ということ、そしてそれはなかなか変わらないんだよな、とシクシク考えた数日だった。

 *

 変わらない、といえば、相変わらずテレビを見ない。もともと、実家にいる頃もテレビを見る習慣があまりなかった。ついていれば、阿呆の様に口をぽかんと開けて見てしまうが、自分からつけることは殆どない。なんだろう、音楽が聞こえるとなんとなくその音の方に目を向けてしまうのと同じことなのだろうか。テレビって妙な引力があって、見るとはなしに見てしまう。自分のそれは、興味とは別の次元の話で、動物的な反応なのかも知れない。
 それでひとり暮らしの頃は必要性を感じなかったのでテレビは家になかった。2年間のこと。それで不自由はまったくなかったし、「淋しくないの?」という輩には「アンタみたいな淋しい人に、この感覚はわかるまい」と心の中で悪態をついたりもした。イヤな奴だな全く。
 結婚したら相方が持っていたテレビを家に置いたが、これも殆ど見なかった。だいたいニュースかスポーツ。たまにドラマ。W杯と白洲次郎が面白かったことしか記憶にない。

 ところが最近、うちにも地デジとやらが導入された。祖父の誕生日にプレゼントしたものだったのだけど、先日祖父が他界して、まだ充分新しいテレビをどうしよう、という話になり、せっかくだから使わせてもらうましょう、ということになったのだった。
 エコポイントがどうした、とか、アナログが見れなくなる、とかいろいろあって、購入を検討した時期もあったのだけど、まあいっかとなんとなく先送りにしてた矢先の話で、祖父の形見、という意味でも、我が家としては願ったりの形になった。それでたまにテレビをつけてみると、やはりきれいなものだと思う。自然の映像とか。
 でもやっぱり基本はニュースだったりして、地震があって、被災地の様子がこれでもかと液晶の大きい画面に映し出されて……。これは、たしかに小さい子供にはきついものがあるなァと思った。

 *

 テレビはあっても殆ど見ない。でもそれでは勿体ないし、DVDの機械でも買って映画でも観るかな、と目論んでいる。しかし、予算の関係で目下購入の計画がたたず、本を読んだりしている。
 そろそろクラシックでも勉強しようかな、と何故か吉田秀和の『マーラー』を買ったりした。

2011/03/26

欲望とは/LIVE LOVE

 携帯電話を新しくしようと思って、街へ出た。いまの機種は3年近く使用していて、本体にひびが入ったり薄く汚れていたり、電池の持ちが悪くなっていた。もうそろそろ変えた方がいいだろう。
 3年、という日々を思うと不思議な感じがある。それまではおよそ1年から2年ほどで変更していた筈で、また、新機種が出ると、店頭にどんなものかと買うでもなく見に行ったり、カタログを繰ったりしていた。それがここ数年はそんな気持ちにはならず、興味を失していた。それは多分、時代の変化もあるし、自分の変化もある。一時期までの携帯電話の進化のスピードは著しいものがあったし、そうしたモノへの興味が多分にあったのだ。

 *

 薄暗いホームで電車が来るのを待っていた。節電、ということなのだろうけど、これはこれで十分だと思った。駅に限らず、これまでが明るすぎた。ただ、エスカレーターが止まっているのには、何とも言えないものを感じた。常時動かしている必要もないだろうけど、妊婦や、足が不自由な人からしたら、何もここまで、と思うかも知れない。エレベーターは動いていたが、どこにあるのかわかりにくい。
 車内は非常に混雑していた。皆、街に何をしにいくのだろうか。車内も消灯していて、次の駅のホームに入っていくときは車内が暗くなった。皆、一様に押し黙って揺られている。妙な感じがあった。

 街は街で、人で溢れていた。皆、何を求めて出てきたのか。一週間前は、もう少しまばらだった様な気がする。反動、なのかも知れない。節電とか買い控えとか、自粛とか、被災地を思って云々、そういった事柄は、理念としては嫌いじゃないが、ファッションというかムード、という気がして居心地が悪かった。多分、時期が来ればこういうことも皆、忘れてしまうのだろう。中にはそうでない人もいるだろうけど、多くの人は、きれいな恰好をしたいし、おいしいものを食べたいし、楽しいことをしたいのだ。欲望を知ってしまったら、そこから抜け出すのは容易なことではない。意識的にしろ無意識的にしろ、なんとなく自粛をしなければならないムードによって押さえつけれた欲望は、じきに溢れ出す。
 ただ、まだそういうムードは有効だから、開けっぴろげには出来ず、何となく気まずいというか、アンビバレントな表情が多く見られた。でも、その気まずさすらも、じきに薄まっていくのだろう。

 *

 物欲が強い、と言われたことがある。確かに、それは否定しない。最近の携帯電話への興味は薄れていたが、Appleの製品やカメラなんかについてはわりあい気にしていて、チェックしている。モノ、というものに興味があるのだ。
 欲があるのは悪いことではないと思う。欲によって動いていく何か、それは確かにある。無欲とか無我とか、そういう境地にも興味はあるのだけど、まだそこにいくのは早い気がしている。でも、そういうことと、控えめになること、というのは矛盾しない。エコとか、なんとか。過剰なものがいけないのであって、無理なくそれらが共存していけばいいのだろうけど、それには頭を使って、ひとつひとつ判断していくこと。そういうことが大事なんじゃないのかな、そんなことを、コーヒーを飲みながら考えた。

2011/03/21

地震について/肝心の子供

 前回の日記から、また少し間が空いてしまった。この間、地震の関係でいろいろあって、住んでいるのが東京なので被害という点では幸いにも特段何もなかったのだが、書けずにいた。
 思うこともいろいろある。それで下書きとして、ひとつ地震について書いてやろう、と書き進めていたものがあったのだけど、いまひとつピンと来ない。何というか、ヌルい辛辣さがあって、単に意地悪いというのか、感じ悪いなーなんて思ってしまい、それ以上書けなくなってしまったのだ。

 この日記を始めるにあたって考えていたことは、読んでいい気分になるものにしよう、ということだった。自分のこれまでを振り返ってみると、世の中に対して何かしらの不満を持ち、しかし大きく訴え出るということはせず、時おり、日記でグチグチと垂れ流す……そこに鋭さは、ない。それでも重ねることによってそれなりの厚みは出てくるし、見せ方なんかも工夫できる様にはなってくるのだけど、そんなものを読んでどうなる? という思いも一方にはあった。
 普段、エッセイの類はそんなに読まない。グダッとしたものを読んでどうなるという気持ちからなのだろうけど、たまに、いいものもある。単純におもしろく、ためになる(ためになるというのは、実用的ということではない)。
 それで、そういうのを書けたらいい、書けるのなら、書こう、と思ったのだった。

 ただ、生来の文句癖が一朝一夕で直るものでないし、それはそれで培ってきた持ち味の様なものでもある。それから、せっかく考えたことでもあるので、かいつまんでまとめておこう。グチグチしたものは、お蔵だし、とは言わないけれど、そういうつもりでとりあえず。

 *

 今回の地震のことで思ったのは、やっぱりインターネット、ブログやtwitterの普及には功罪があって、良い面もあるのだけど、自分には負の面が強く目についたなァということだった。個人が意見を発信できること、メディアとなれることは、決して悪いことではないと思う。自分にしても、もう10年近く日記という形で考えを綴ってきた。表現の自由。
 でも、今回、twitterは混乱していた。リツイートというのか、多くの人は善意でそれを流しているのだろうけど、たぶん中には悪意の人もいる。また、善意の行為がすべて良いというわけではなくて、無意識に悪意のそれに加担したり、パニックを引き起こしたりする。もう少し冷静に考えて、行動すればいいのに、という思いでそれを見ていた。
 自由には責任が伴う、というのは当然のことで、でもお手軽に意見を表明できるインターネットの世界では、完全ではないにしても匿名性が保たれているから言いたいことを言うことができて、ニュースなんかにもコメントができて、しかし、その意見に責任を持っている人はどれだけいるのだろう? 言いっぱなしじゃないの? というものも散見している。自分は、そういうことはしたくないな、と思ったのだ。
 批判とかしたくなることは多くあるけれど、言いっぱなしじゃなくて、ではどうしたらいいのか、とか、そういうのが大事なんじゃないかな。そんな風に思うと、地震のことを話題に日記を書くことが、少しためらわれた。

 あと、被災した人たちについては本当に気の毒なことだと思うし、早い復興を願っている。ただ、今回のことに関してそういうメッセージがやたら多く目につくことには、違和感がある。どういうことなのだろう。ニュージーランドの地震とか、殺人事件とか、虐待事件とか、痛ましいニュースは多くあるよ。被害者(被災者)の規模? 或いは身近かどうか、ということなのだろうか。
 まだそのことには考えが深く及んでいないので、このくらいに留めておくけれど、といってそのことに触れないわけにもいかないので、書いておく。

 *

 自分にとって小説を読むことは、単なる暇つぶしではない。暇つぶしにしかならない様な小説はどうでもいいと思っているし、実用的な小説、というのも(あるのかどうかは知らないけれど、)読もうと思わない。考えるヒント、ということなんだろうか。小林秀雄は、まだちゃんと読んだことがない。
 考えることをやめたら、いけないなァと思いつつ、本を読む日々。

2011/03/06

健康/The Man Who Sold The World

 シャワーを浴びていて、ふと、「そういえば、行水みたいに冷たいシャワーを浴びていたことがあったなァ」と思い出した。
 いま住んでいるのは築20年のマンションで、あちこちの設備が古い。ということと関係があるのかどうか、シャワーの温度が一定でない。使い始めのときや、一旦止めて、再度使い始めると、急に冷たくなったり熱くなったりする。そのときも急に冷たくなって、でもちょっと我慢していればすぐに戻るか、などと思いながら浴びていたら、不意に昔のことを思い出したのだ。

 なぜそんなことをしていたのか。それはいつのことだったか。実家にいた頃のことだから、少なくとも4年以上前の話だ。でも、中学生や高校生の頃のことの様にも思えるし、浪人、大学、或いは社会に出てからのことの様にも思う。健康になれる、なんて思って浴びていたのか。すっかり忘れていたことだから詳細はまったく思い出せないのだけど、なんとなく、その頃はわりあい、健康だった気がする。
 健康という話なら、小学生の頃は早朝にマラソンをしていたこともあった。ぬるま湯に塩を溶かしたものを鼻から吸って、鼻うがいをしていたこともあった。意識的に歩くこともしていたし、階段を使う様にしていたこともある。1年くらい前には水泳をしていた。
 いまではどうか。それらがすべて健康に良いかどうかはさて置いて(実際、鼻うがいは素人が安易にやると二次被害に遭うこともあるという。怖い。)、どれも遠ざかっていってしまった。自分をコントロール云々と偉そうに言いながら、実際にはこのザマだ。体もすっかり弱くなってしまった。これを「30歳になったから」と言いのけるのは、恥ずべきことだな。

 *

 ところで前回の日記に『Space Oddity』というDavid Bowieのアルバム名を付したのだけど、これはコントロールするという内容から、彼の「世界を売った男(The Man Who Sold The World)」という曲を想起したためなのだけど、よく考えたらこの曲は同名の『The Man Who Sold The World』というアルバムに入っているので、まったく意味がわからないものになってしまった。阿呆にもほどがある。『Space Oddity』は、これはこれで良いアルバムなのだけど。

 あまり歌詞というのはよく読まないのだけど、「世界を売った男」の“I never lost control”というフレーズが好きだ。

2011/03/04

自分をコントロール/Space Oddity

 少し前に、髪を切った。2年くらいお世話になっていた担当さんが急に退職してしまい、後任の人との相性があまり良くなかったので、店を変えようと思っていた。ただ、なんだか最近は土日も忙しく、思う様に時間が取れないことから、なんとなく伸ばしっぱなしになっていて、見苦しいこと、この上なかった。それでもういい加減、切らなくては、と、ある日思い立って、通勤途中にある小洒落た感じの美容院に行ってみた。結果、悪くない。また次も行ってみようという気になった。

 *

 ところでこの話題はあまりしたことがないのだけど、高校を卒業したあたりから、社会人になって2年目くらいまでは、美容院には行かず自分で切っていた。無印良品ので散髪用の鋏を買って、適当に切っていた。当然、自分でやるのでうまくいくことも失敗することもあった。特に後ろの方は酷いことになることもあった。まあでも、だいたいこんなものかと納得していた。悪くないじゃない。
 自分で切る様になった詳しいきっかけは忘れてしまったけど、1回につき4〜5,000円を払うのがもったいないというのが、理由のひとつだと思う。単にケチ、というのもあるけど、髪を切ると必ず、「なんだか失敗したなァ」と思ったもので、どうして、気に食わないものに対価を支払わなければならないのか、阿呆くさ。そんな風に思っていた。うまい人に巡り会わなかっただけなのかも知れないけど、自分でやった方が早いと思ってしまったのだ。

 それでは、再び美容院に行く様になったきっかけは何か。これはもう、結婚前の顔合わせがそれである。さすがにそれは、と気が引けたのだ。それでどの美容院がいいのか、というのはまったくわからなかったので、適当に入ったところが当たりだった。良かった、と思って2年くらい利用したら担当さんが辞めてしまったのだ。でも、美容院への支払いについては見合うものもある、と気付けたのが良かった。とにかく実感が伴わないとダメだ。

 *

 自分のことは自分でする。この感覚は、それでも根本にあり続ける。責任を取るとか、コントロールするとか。自分を律するとか。好き嫌いのレベルではなく、そうあるべき、という感覚なのだ。とはいえ全然ストイックじゃなくて、けっこうグダグダなのだけど。自分をコントロールできないことは、恐怖だ。
 まあでも、髪を切るぐらいで大袈裟な、とは思わないでもない。

2011/02/26

暗い私/シュルレアリスムとは何か

 前回の日記を書いた後しばらく考えていて、筆が滑った様な気がするな、と思ったので、ちょっと補足をしようと思う。

 昔から、あまりその言葉の意味というか重みを考えずに使う癖があって誤解を与えることがあった。例えば、「あいつは馬鹿だよね。」と言ったときに、何も考えずにまっさらな状態でその台詞を受け止めると、相手を侮蔑している意味として取れる。でも文脈によっては、親しみを込めた、愛情を持った意味に取ることも出来る。その辺は会話の流れや当事者同士の関係性により変わってくるもので、コミュニケーションの濃度が濃い場合にしか成立しない。でもそれはそれで一応成立することなのだけど、こと文字だけになってしまうと、なかなか難しいものになる。
 胡散臭い、という言葉は、通常の自分の使い方としては決して悪い意味というわけではないのだけど、普通に考えたらいい意味では使わない。別に曽我部恵一氏を貶めようという気はさらさらなくて、むしろ彼の音楽はけっこう好きな方なので、どちらかといえば親しみを込めて使ったのだけど、ちょっとあの文脈でそうとらえることは難しいな、と考え直した次第である。以上、補足終り。

 *

 ところで、前から言葉本来の意味以外の意味、付随するイメージといったことについてよく考えている。例えば、「オダ君って暗いよねー」という風にいわれた場合、誉められたとは受け取らない。通常の文脈で考えれば、言う方も言われる方も「暗い」という言葉に肯定的な意味を見出さない。それってどういうことなんだろうか。そんな風に考える様になったのは、『シュルレアリスムとは何か』を読んだのがきっかけで、詳しい内容は割愛するけど、少なくとも欧州では暗いという言葉に否定的な意味合いがこもっていない時代があった。
 もしかしたら社会学なんかでそういう研究があるのかも知れない。或いは言語学とか。そういうことを勉強しても面白いかな、なんて思っている。あ、でも社会学ということで考えてもいいかも。ならば〈暗い〉と表現するべきか。〈〉付きの言葉は、ゼミの教授の受け売りで、社会的な意味付けが付与された言葉に用いる用法。

〈暗い〉かどうかは別として、どちらかといえば明るい方ではない。暗いと思う。わざわざ書かんでも知ってるよ、と言われそうだが。どうして暗くなっちゃったのかな、先天的なものだろうか。後天的? 一時期はそういうことについてもイジイジと考えていた時期もあったけど、まあ、仕方ないと割り切った。いまはそういう自分は嫌いではない。

 *

 学生時代、Sと「音楽とか文学とかに親しむ様な人間はたいてい暗いよね」という様なことを話したことがある。我々は、そのとき「暗い」という言葉を〈暗い〉とは使わなかった筈だ。あの頃はいまより断然暗かったなァ。しみじみ思う。

2011/02/19

屁理屈/LOVE CITY

 最近の自分の中の流行は、自己分析。と言ってもフロイト先生とかを持ち出す様な本格的なそれではなく、もう少しラフな感じ。日記をまた書き出したというのも関係しているのだけど、昔から自分の考え方とか行動について振り返ってみるというのが好きだったので、何度目かの流行とも言える。
 それで、前から薄々感付いてはいたのだけど、自分は理屈っぽいところが多分にあるのだが感覚的なところもまた、多いにある。つまりフィーリングで動いて後付けの理屈、場合によっては屁理屈になるけど、とりあえず、自分を納得させたがるという傾向がある。
 そういう風に思い至ったのには理由があって……と書きたいのだけど、そうして付けた理屈が理屈になってなくて、あ、こういうところが後付けなんだよな、と気付いて苦笑した。

 *

 短いエピソードを2つ。

 中学校の家庭科の課題だったと思う。何か食品の成分を調べてレポートを書け、というものがあって、家庭科に限らず基本的に課題の類いにはギリギリまで手を付けない質だったので、例にもれず提出日直前になってでっち上げの様な態で仕上げた。内容が酷い。何を調べたのかは失念したが、やたらとアミノ酸が目に付いた。その頃まったく別の線で食品添加物が気になっていて、結びついてしまったのだろう。
「自分が調べた食品にはアミノ酸というものが多く入っていた。どういうものかを調べるまでには至らなかったが、近頃増えている食品添加物の類いに違いない。それはつまり……。」
 屁理屈というより、もういい加減にしろといった感じだ。よく再提出を求められなかったものである。2とか1が付けられた記憶もない。

 もうひとつは高校の美術の課題で、どこか美術館に行って作品を選んでレポートを書けというもの。レンブラントの絵を選んだ。そのときは中学時代よりはまともになっていたので、一応百科事典か何かで調べたのだけど、レンブラントの名前が見つけられなかった。それで結局、
「名前が見つからないので、おそらく名を成した人ではないのだろう。でも自分はこの作品を観てひどく感銘を受けた。美術作品というのは歴史的な評価や他者の評価に左右されず、あくまで自分の視点で判断するのが大事なのではないか……。」
 なんともまあ、偉そうな物言いだなという感じだし、滅茶苦茶な理屈だ。というか、17世紀オランダを代表する彼に対して大変な言い草だ。

 *

 大学の頃、後輩にこう言われた。「オダ先輩の話は、どこか胡散臭い」確かにそう思う。それはいまでも変わらない傾向で、だから私のまわりの人は、私と話をしていて違和感を覚えたら、遠慮なく言った方がいいと思います。お互いのために。

 胡散臭さは、曽我部恵一にも感じる、なんて言ったらファンに刺されるかな。

2011/02/11

姿勢について/HIGHVISION

 この日記を始めて間もないが、少し軌道修正をすることにした。文体、というか言葉遣いを少し変える。
 ウェブ上で日記を書く様になって、なんだかんだと10年くらい経つ。その間、内容には変化があまりない様に思えるのだけど、書き方はけっこう変化している。大学生くらいになってしまえば興味の幅が広がることはあっても、方向性は変わらない。試しに数年前に書いたものを読み返してみると、笑ってしまうくらいに言っていることが変わらない。ただ、言い回し、書き方については別である。失笑だ。稚拙というか、深みに欠けるというか(いま書くものに深みがあるかというと、別の話だけど)、もう少しなんとかならなかったのかなァとも思うが、そのときはそのときで良いと思って書いたのだから、仕方ないかと諦める。赤面はしつつ。

 あるとき、少し重みがほしいと思った。そのときまでは、軽い語り口を好んで使っていたのだけど、ブログが登場して一気に裾野が広がって、ネット上が軽い語り口のもので溢れる様になった。そうなると、途端に嫌になるのが、良くも悪くも自分の質である。何でそんな、メールに書く様な感じで日記を書くんだ、恥はないのか。いったいお前は何様だ、という感じだが、そう思って仕方がなかった。“(笑)”でさえ、抵抗があるのに、絵文字とか、アスキーアート(と言うんですよね、よく知らないのだけど。)を駆使したものを読むにつけ、うんざりした。

 自分の中には保守的な部分とそうでない部分が混在していて、基本的に新しいものについてはやってみようという気持ちが働くが、例えばmixiなんかのSNSとか、TwitterやFacebookなんかも、完全に否定はしないけど、そのあり方には一定の距離を保ちたいと思っている。それはネット上における公私の別という話で、そもそもインターネットは公のもの、社会的なものだという意識がある。プライベートなものではないから、個人的なこと、仲間内でしか通じない様な話題は、さらすべきではないという気持ちがある。
 ただ、会員制のサイトとか、先にあげたSNSなんかは私的な領域を拡大する。友達同士の交換日記めいた文章を多くつくりだす。
 それらが良いか悪いかという話ではなくて、好き嫌いの問題で、自分は好ましいと思わない、という話。

 話は少し逸れてしまったが、重みをつけようとした結果、固くなり過ぎたというか、普段の自分の言い回しからかけ離れてしまった。言文一致ということになると、それこそメール文体めいた感じになり、それは好むところではないけれど、違い過ぎるというのも、違和を感じてしまう。中間をとることは難しい。実際にこの日記を書きながら、全然いままでと変わっていないじゃん、というツッコミを感じるのだけど、そう意識して行動することが大事なのだと自分を鼓舞してみる。

 *

 昔、SUPERCARというバンドがあった。自分は歌詞をあまり気にしない聴き方をするが、このバンドの歌詞は、なんかいいな、と思って聴いていた。
 作詞の石渡淳治のインタビューは、好んでチェックしていた。『HIGHVISION』というアルバムはそこまで好きなアルバムではないのだけど、その時期の石渡氏の発言は、いいな、と思って読んでいた。高い意思、視線、きれいなものだけを見る。そんなフレーズが多かった気がする。汚いもの、醜いもの、暗いもの、それらは厳然として存在するけど、良い方向を見つめるという姿勢。そういうのを忘れてはいけないな、と思うのだ。

2011/02/06

なくてもいいもの/LEMONed

 なくても良かったけど、自分にとっては良かったこと、というものは結構ある。なくてもいい、というのは、或いは実用的とか、役に立つなどと言い換えることができるかも知れない。
 これまで、人から「オダさん、それって意味あるんですか?」「で、何の役に立つわけ?」などと訊かれることが多かった。役に立つかどうか、という視点自体が、そもそも備わっていなかったりするから、初めのうちは何と答えたものかどうか思案したものだが、そのうち、深く考えず、「ないです、何も」と答える様になった。

 人生は死ぬまでの暇つぶし、なんて云うつもりはまったくなくて、逆にどう生きるか、ということを考えた方がいいと思っている。どう生きるか、とは、ひとつひとつの行為それ自体が目的となること……手段ではなく、意味を持たず。例えば、小説を読むことは、何かを得るために小説を読むというわけではなく、小説を読む、ただそれだけの話で、そのことは別に異論はないと思うのだけど、哲学書とかになると話は違ってくる(最近は全然読めてないですが)。
「それっておもしろいの?」「何でそんなの読んでるの?」
 読みたいから読んでるんだけど、という答えでは、あまり納得してもらえないことが殆どだ。

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 なくても良かったけど、というものを3つあげろと云われると、いま思い浮かぶのは、浪人時代、一人暮し、音楽といまは答える。少し書いてみる。


・浪人時代
 高校時代はまったく勉強をしていなかったので、大学進学のために浪人をする羽目になった。3年生の途中から、「あ、これは浪人だな」と思って早々に家族に宣言した記憶がある。親からすればとんでもない話で、いまの自分が聞いても、それはないぜと叱り飛ばしたくなる話だが、当時の自分は仕方ないじゃないかと開き直っていた。
 大学に進みたいなら、相応のところを選ぶか、ちゃんと高校時代から勉強すればいい話で、浪人するなんて本当に意味がない。でも、あの抜き差しならない一年間はいまの自分を形作ったなァと思っている。しなくてもいいけど、して良かった、というか無駄にはなってないなという感じがある。
 でも経済状況とか、いろいろあるから、これは避けられるなら避けるべき状況ですね。

・一人暮し
 これも、しなくて済むならしないでいいことだと思う。お金がかかるし。でも何でも自分の責任においてやる、という生活は自分に合っていた。社会人になって一年お金を貯めてから実家を出て、2年間だけだったけど、本当に楽しかった。振り返れば、掃除はろくにしないし台所も滅茶苦茶で、ちゃんと生活をしていたとはとても云えないけれど、そこで得たものは多いと思っている。
 テレビもネットもない生活だったけど、全然不便を感じなかったです。

・音楽
 これはhideがインタビューなんかで云っていたことで、読んでいてハッと気付いたのだけど、音楽なんて本当になくても済む代物で、でも、音楽を聴いて人生変わっちゃう人もいるし、なんだかよくわからないものだ。
 いまでも、音楽がないと死んじゃう、と云う人とはあまり仲良くなれないかも知れないと思う一方で、音楽がないと、全然人生が違ってくるな、とも思う。依存するわけでもないけど、寄り添う、それくらいの距離感がある方がいろいろと楽だと思うのだけど、そうでない状況というのもあるのだろう。自分はしあわせなのかも知れないな。

2011/02/05

re:nikki、はじめます/Ziggy Stardust

 新しい日記を始めるにあたって、自己紹介だとかこの日記がどういうものか等を書くのが一般的なのだろうけど、おそらくこの日記を読む人の殆どが、もともと自分の日記を読んでくれていた人か、読んだことはないが知り合いである、という人たちだろうから、それは割愛する。ただ、この日記がどういうものなのか、ということは書いた方がいい気がしている。それは、読者のため、ということでなく、備忘録的な意味で。

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 そもそも、前の日記をやめてから二ヶ月以上が経っていて、その間、次もまたどこかで書きます、と書いてしまったことについて断続的にではあるが考えていた。本当に俺はまた日記を書くのか? 書くなら何を? 書くのは、日記、なのだが、ウェブ上で日記を書くということは単なる日記を書けばいいということではないと思っている。今日こういうことがあってこう思った。良かった。哀しかった。そんなことを書いて何か意味があるのだろうか? そんな風に思う。
 勿論、そういう日記はたくさんあるし、書いた人たちについてどうこう云うつもりはない。それをその人は書きたかったのだから、それでいい。書くことは自由だ。でも、自分が書くにあたっては、考える。ウェブ上に日記を書く、というのは読者を想定した行為の筈で、であるならばそれは独り言であってはいけない。或いは〈つぶやき〉。独り言や呟きというものは、ごく小さな、ささやかなもので、決して大声でなされるものではない。他者に投げかけられる言葉ではない。
 何かを書くなら、読まれることを前提にしたものを書く。では何を書こうか。そこで止まってしまう。フックというか、アクセントがあればいいのではないか。自分が興味を持っているものといえば、カメラ、自転車、音楽、本、料理……。とりとめがない。Macについてでも書く? そういうブログも溢れている。そもそも自分には情報を収集して発信したい、という気持ちが皆無なのだ。そういうものは書けないだろう。
 結局、mixiという場で5年近く日記を書いてきた、そのやり方がいいのではないかと思った。そこではCDやら本やら絵画展なんかのタイトルと画像を載せ、内容はそれに関係あるか少し関係しているか全く関係がないかの文章を書いた。レビューがやりたいのか何なのかわからない、という声はあったけれど、それなりに手応えの様なものは感じていた。直截的でない、紹介。

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 試行錯誤は続くが、とりあえずは書いてみようと思う。すぐに飽きてしまうかも知れないし、変節するかも知れない。それはそれでいいだろう。
 David Bowieの新譜という話はついぞ耳にしなくなったが、40年以上も前からロック音楽の現場で活動を続けている姿は、ひとつの理想である。スタイルが変わる、というのがBowieのスタイルだと云う人もあるが、少なくとも自分は「あ、Bowieの音楽だな」と聴いて思う。寧ろ、ひとつのことしか出来ないで、それを続けていくということなんかに意味があるのかな? なんて思ってしまう。いろいろなやり方を試しているけども、ああ、やっぱりこの人の作品だなァと納得させてしまう、という方が恰好いいと思う。
 もう一度書くが、とりあえずは書いてみようと思う。