前回の日記から、また少し間が空いてしまった。この間、地震の関係でいろいろあって、住んでいるのが東京なので被害という点では幸いにも特段何もなかったのだが、書けずにいた。
思うこともいろいろある。それで下書きとして、ひとつ地震について書いてやろう、と書き進めていたものがあったのだけど、いまひとつピンと来ない。何というか、ヌルい辛辣さがあって、単に意地悪いというのか、感じ悪いなーなんて思ってしまい、それ以上書けなくなってしまったのだ。
この日記を始めるにあたって考えていたことは、読んでいい気分になるものにしよう、ということだった。自分のこれまでを振り返ってみると、世の中に対して何かしらの不満を持ち、しかし大きく訴え出るということはせず、時おり、日記でグチグチと垂れ流す……そこに鋭さは、ない。それでも重ねることによってそれなりの厚みは出てくるし、見せ方なんかも工夫できる様にはなってくるのだけど、そんなものを読んでどうなる? という思いも一方にはあった。
普段、エッセイの類はそんなに読まない。グダッとしたものを読んでどうなるという気持ちからなのだろうけど、たまに、いいものもある。単純におもしろく、ためになる(ためになるというのは、実用的ということではない)。
それで、そういうのを書けたらいい、書けるのなら、書こう、と思ったのだった。
ただ、生来の文句癖が一朝一夕で直るものでないし、それはそれで培ってきた持ち味の様なものでもある。それから、せっかく考えたことでもあるので、かいつまんでまとめておこう。グチグチしたものは、お蔵だし、とは言わないけれど、そういうつもりでとりあえず。
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今回の地震のことで思ったのは、やっぱりインターネット、ブログやtwitterの普及には功罪があって、良い面もあるのだけど、自分には負の面が強く目についたなァということだった。個人が意見を発信できること、メディアとなれることは、決して悪いことではないと思う。自分にしても、もう10年近く日記という形で考えを綴ってきた。表現の自由。
でも、今回、twitterは混乱していた。リツイートというのか、多くの人は善意でそれを流しているのだろうけど、たぶん中には悪意の人もいる。また、善意の行為がすべて良いというわけではなくて、無意識に悪意のそれに加担したり、パニックを引き起こしたりする。もう少し冷静に考えて、行動すればいいのに、という思いでそれを見ていた。
自由には責任が伴う、というのは当然のことで、でもお手軽に意見を表明できるインターネットの世界では、完全ではないにしても匿名性が保たれているから言いたいことを言うことができて、ニュースなんかにもコメントができて、しかし、その意見に責任を持っている人はどれだけいるのだろう? 言いっぱなしじゃないの? というものも散見している。自分は、そういうことはしたくないな、と思ったのだ。
批判とかしたくなることは多くあるけれど、言いっぱなしじゃなくて、ではどうしたらいいのか、とか、そういうのが大事なんじゃないかな。そんな風に思うと、地震のことを話題に日記を書くことが、少しためらわれた。
あと、被災した人たちについては本当に気の毒なことだと思うし、早い復興を願っている。ただ、今回のことに関してそういうメッセージがやたら多く目につくことには、違和感がある。どういうことなのだろう。ニュージーランドの地震とか、殺人事件とか、虐待事件とか、痛ましいニュースは多くあるよ。被害者(被災者)の規模? 或いは身近かどうか、ということなのだろうか。
まだそのことには考えが深く及んでいないので、このくらいに留めておくけれど、といってそのことに触れないわけにもいかないので、書いておく。
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自分にとって小説を読むことは、単なる暇つぶしではない。暇つぶしにしかならない様な小説はどうでもいいと思っているし、実用的な小説、というのも(あるのかどうかは知らないけれど、)読もうと思わない。考えるヒント、ということなんだろうか。小林秀雄は、まだちゃんと読んだことがない。
考えることをやめたら、いけないなァと思いつつ、本を読む日々。
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