2011/04/23

コミュニケーションをとる/希望の国のエクソダス

 新しい年度が始まり、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。その少し前、3月に大きな地震があって、いろいろなことが変わってしまった。生活環境などもそうだけど、意識のありようもまた、大きく変わった。テレビや新聞、インターネットでも多くの言説を目にした。その中で、何かを考えないことが出来ただろうか。少なくとも自分は、地震について、生活について、考えるということについて、何とはなしに考えていた。この日記にも、少し書いた。
 そういうこともありつつ、しかし地震とは関係なく、仕事は仕事で進行していく。自分の異動はなかったが、新しい人が入ってきた。引き継ぎながら、引き継がれながら、引き続き担当する仕事もこなさなくてはならない。めまぐるしい一ヶ月だったなぁ、と振り返るのである。

 *

 仕事の根幹をなすものは何か、と考えたときに、コミュニケーションである、と思った。これは普段から漠然と思っていたことではあったのだけど、自分が担当していた仕事を引き継ぎ、また、他の人が担当していた仕事を引き継がれる中で、強く思ったこと。
 就職してから5年が過ぎて、いまの職場に異動して2年が過ぎた。仕事にある程度慣れてくると、暗黙の了解、コードというものが身に付く。コードを有する者同士では、いちいち説明することなく、コミュニケーションが成立することが多くなる。それは仕事をする上では非常に重要なことなのだけど、それには、お互いが共通のコードを有している、という前提が必要となる。仕事の引き継ぎをすると、相手がコードを有していないこともある、というか、コードを有していないことの方が多い、ということを強く意識する。あるいは、限られたコードしか有していないということもある。

 これは仕事に限ったことではなく、日常生活を送る上でもよく踏まえておかなくてはならないことではないか。つまり、相手がどういうコードを持っているのか、持っていないかも知れない、ということを前提として、コミュニケーションを図ること。同じ職場である、同業である、同郷である、同じ国籍を有している……。そういうとき、つい、距離が縮まったと思ってしまう。共通のコードを有していると思ってしまう。でも、そうでないかも知れない。そうでなかったとき、かえって面倒なことになるかも知れない。思い違いや、すれ違いや、衝突が起こるかも知れない。相手を不愉快にさせてしまうかも知れない。自分が日々面倒だなぁと思うことは、そういう摩擦だ。
 でも、いちいち説明を重ねることは、面倒だ。というか、無駄だ。ポイントは、どういうコードを持っているのかを探りながら、状況に応じて変えていく、スムーズなコミュニケーションを図るということなのだと思う。

 *

『希望の国のエクソダス』という本は村上龍の作品の中で気に入っている部類で、よく読み返す。テーマというか、作者が言いたいことは多岐にわたっているのだけど、自分がこの作品を思うときに思い起こすのは、序盤で、中学生の少年が主人公に対してこんなことを話すシーンだ。
 自分が言いたいことがある、ということを相手に伝える、ということがわかるか。コミュニケーションが成立するのは、そういうことが前提として成り立っているからで、例えばいじめを受けている人は、基本的に相手から無視されているから、伝えたいことがある、というところから始めなくてはならない。
 いま、手元に本がないので詳細は再現できないのだけど、「伝えたいことがある、というところから始めなければならない」ということが、非常に強く心に残った。

 何となくのコミュニケーション、簡潔なそれに抵抗感があるのは、そういうことなんだなぁと、また改めて思ったのである。

No comments: