2011/02/26

暗い私/シュルレアリスムとは何か

 前回の日記を書いた後しばらく考えていて、筆が滑った様な気がするな、と思ったので、ちょっと補足をしようと思う。

 昔から、あまりその言葉の意味というか重みを考えずに使う癖があって誤解を与えることがあった。例えば、「あいつは馬鹿だよね。」と言ったときに、何も考えずにまっさらな状態でその台詞を受け止めると、相手を侮蔑している意味として取れる。でも文脈によっては、親しみを込めた、愛情を持った意味に取ることも出来る。その辺は会話の流れや当事者同士の関係性により変わってくるもので、コミュニケーションの濃度が濃い場合にしか成立しない。でもそれはそれで一応成立することなのだけど、こと文字だけになってしまうと、なかなか難しいものになる。
 胡散臭い、という言葉は、通常の自分の使い方としては決して悪い意味というわけではないのだけど、普通に考えたらいい意味では使わない。別に曽我部恵一氏を貶めようという気はさらさらなくて、むしろ彼の音楽はけっこう好きな方なので、どちらかといえば親しみを込めて使ったのだけど、ちょっとあの文脈でそうとらえることは難しいな、と考え直した次第である。以上、補足終り。

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 ところで、前から言葉本来の意味以外の意味、付随するイメージといったことについてよく考えている。例えば、「オダ君って暗いよねー」という風にいわれた場合、誉められたとは受け取らない。通常の文脈で考えれば、言う方も言われる方も「暗い」という言葉に肯定的な意味を見出さない。それってどういうことなんだろうか。そんな風に考える様になったのは、『シュルレアリスムとは何か』を読んだのがきっかけで、詳しい内容は割愛するけど、少なくとも欧州では暗いという言葉に否定的な意味合いがこもっていない時代があった。
 もしかしたら社会学なんかでそういう研究があるのかも知れない。或いは言語学とか。そういうことを勉強しても面白いかな、なんて思っている。あ、でも社会学ということで考えてもいいかも。ならば〈暗い〉と表現するべきか。〈〉付きの言葉は、ゼミの教授の受け売りで、社会的な意味付けが付与された言葉に用いる用法。

〈暗い〉かどうかは別として、どちらかといえば明るい方ではない。暗いと思う。わざわざ書かんでも知ってるよ、と言われそうだが。どうして暗くなっちゃったのかな、先天的なものだろうか。後天的? 一時期はそういうことについてもイジイジと考えていた時期もあったけど、まあ、仕方ないと割り切った。いまはそういう自分は嫌いではない。

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 学生時代、Sと「音楽とか文学とかに親しむ様な人間はたいてい暗いよね」という様なことを話したことがある。我々は、そのとき「暗い」という言葉を〈暗い〉とは使わなかった筈だ。あの頃はいまより断然暗かったなァ。しみじみ思う。

2011/02/19

屁理屈/LOVE CITY

 最近の自分の中の流行は、自己分析。と言ってもフロイト先生とかを持ち出す様な本格的なそれではなく、もう少しラフな感じ。日記をまた書き出したというのも関係しているのだけど、昔から自分の考え方とか行動について振り返ってみるというのが好きだったので、何度目かの流行とも言える。
 それで、前から薄々感付いてはいたのだけど、自分は理屈っぽいところが多分にあるのだが感覚的なところもまた、多いにある。つまりフィーリングで動いて後付けの理屈、場合によっては屁理屈になるけど、とりあえず、自分を納得させたがるという傾向がある。
 そういう風に思い至ったのには理由があって……と書きたいのだけど、そうして付けた理屈が理屈になってなくて、あ、こういうところが後付けなんだよな、と気付いて苦笑した。

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 短いエピソードを2つ。

 中学校の家庭科の課題だったと思う。何か食品の成分を調べてレポートを書け、というものがあって、家庭科に限らず基本的に課題の類いにはギリギリまで手を付けない質だったので、例にもれず提出日直前になってでっち上げの様な態で仕上げた。内容が酷い。何を調べたのかは失念したが、やたらとアミノ酸が目に付いた。その頃まったく別の線で食品添加物が気になっていて、結びついてしまったのだろう。
「自分が調べた食品にはアミノ酸というものが多く入っていた。どういうものかを調べるまでには至らなかったが、近頃増えている食品添加物の類いに違いない。それはつまり……。」
 屁理屈というより、もういい加減にしろといった感じだ。よく再提出を求められなかったものである。2とか1が付けられた記憶もない。

 もうひとつは高校の美術の課題で、どこか美術館に行って作品を選んでレポートを書けというもの。レンブラントの絵を選んだ。そのときは中学時代よりはまともになっていたので、一応百科事典か何かで調べたのだけど、レンブラントの名前が見つけられなかった。それで結局、
「名前が見つからないので、おそらく名を成した人ではないのだろう。でも自分はこの作品を観てひどく感銘を受けた。美術作品というのは歴史的な評価や他者の評価に左右されず、あくまで自分の視点で判断するのが大事なのではないか……。」
 なんともまあ、偉そうな物言いだなという感じだし、滅茶苦茶な理屈だ。というか、17世紀オランダを代表する彼に対して大変な言い草だ。

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 大学の頃、後輩にこう言われた。「オダ先輩の話は、どこか胡散臭い」確かにそう思う。それはいまでも変わらない傾向で、だから私のまわりの人は、私と話をしていて違和感を覚えたら、遠慮なく言った方がいいと思います。お互いのために。

 胡散臭さは、曽我部恵一にも感じる、なんて言ったらファンに刺されるかな。

2011/02/11

姿勢について/HIGHVISION

 この日記を始めて間もないが、少し軌道修正をすることにした。文体、というか言葉遣いを少し変える。
 ウェブ上で日記を書く様になって、なんだかんだと10年くらい経つ。その間、内容には変化があまりない様に思えるのだけど、書き方はけっこう変化している。大学生くらいになってしまえば興味の幅が広がることはあっても、方向性は変わらない。試しに数年前に書いたものを読み返してみると、笑ってしまうくらいに言っていることが変わらない。ただ、言い回し、書き方については別である。失笑だ。稚拙というか、深みに欠けるというか(いま書くものに深みがあるかというと、別の話だけど)、もう少しなんとかならなかったのかなァとも思うが、そのときはそのときで良いと思って書いたのだから、仕方ないかと諦める。赤面はしつつ。

 あるとき、少し重みがほしいと思った。そのときまでは、軽い語り口を好んで使っていたのだけど、ブログが登場して一気に裾野が広がって、ネット上が軽い語り口のもので溢れる様になった。そうなると、途端に嫌になるのが、良くも悪くも自分の質である。何でそんな、メールに書く様な感じで日記を書くんだ、恥はないのか。いったいお前は何様だ、という感じだが、そう思って仕方がなかった。“(笑)”でさえ、抵抗があるのに、絵文字とか、アスキーアート(と言うんですよね、よく知らないのだけど。)を駆使したものを読むにつけ、うんざりした。

 自分の中には保守的な部分とそうでない部分が混在していて、基本的に新しいものについてはやってみようという気持ちが働くが、例えばmixiなんかのSNSとか、TwitterやFacebookなんかも、完全に否定はしないけど、そのあり方には一定の距離を保ちたいと思っている。それはネット上における公私の別という話で、そもそもインターネットは公のもの、社会的なものだという意識がある。プライベートなものではないから、個人的なこと、仲間内でしか通じない様な話題は、さらすべきではないという気持ちがある。
 ただ、会員制のサイトとか、先にあげたSNSなんかは私的な領域を拡大する。友達同士の交換日記めいた文章を多くつくりだす。
 それらが良いか悪いかという話ではなくて、好き嫌いの問題で、自分は好ましいと思わない、という話。

 話は少し逸れてしまったが、重みをつけようとした結果、固くなり過ぎたというか、普段の自分の言い回しからかけ離れてしまった。言文一致ということになると、それこそメール文体めいた感じになり、それは好むところではないけれど、違い過ぎるというのも、違和を感じてしまう。中間をとることは難しい。実際にこの日記を書きながら、全然いままでと変わっていないじゃん、というツッコミを感じるのだけど、そう意識して行動することが大事なのだと自分を鼓舞してみる。

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 昔、SUPERCARというバンドがあった。自分は歌詞をあまり気にしない聴き方をするが、このバンドの歌詞は、なんかいいな、と思って聴いていた。
 作詞の石渡淳治のインタビューは、好んでチェックしていた。『HIGHVISION』というアルバムはそこまで好きなアルバムではないのだけど、その時期の石渡氏の発言は、いいな、と思って読んでいた。高い意思、視線、きれいなものだけを見る。そんなフレーズが多かった気がする。汚いもの、醜いもの、暗いもの、それらは厳然として存在するけど、良い方向を見つめるという姿勢。そういうのを忘れてはいけないな、と思うのだ。

2011/02/06

なくてもいいもの/LEMONed

 なくても良かったけど、自分にとっては良かったこと、というものは結構ある。なくてもいい、というのは、或いは実用的とか、役に立つなどと言い換えることができるかも知れない。
 これまで、人から「オダさん、それって意味あるんですか?」「で、何の役に立つわけ?」などと訊かれることが多かった。役に立つかどうか、という視点自体が、そもそも備わっていなかったりするから、初めのうちは何と答えたものかどうか思案したものだが、そのうち、深く考えず、「ないです、何も」と答える様になった。

 人生は死ぬまでの暇つぶし、なんて云うつもりはまったくなくて、逆にどう生きるか、ということを考えた方がいいと思っている。どう生きるか、とは、ひとつひとつの行為それ自体が目的となること……手段ではなく、意味を持たず。例えば、小説を読むことは、何かを得るために小説を読むというわけではなく、小説を読む、ただそれだけの話で、そのことは別に異論はないと思うのだけど、哲学書とかになると話は違ってくる(最近は全然読めてないですが)。
「それっておもしろいの?」「何でそんなの読んでるの?」
 読みたいから読んでるんだけど、という答えでは、あまり納得してもらえないことが殆どだ。

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 なくても良かったけど、というものを3つあげろと云われると、いま思い浮かぶのは、浪人時代、一人暮し、音楽といまは答える。少し書いてみる。


・浪人時代
 高校時代はまったく勉強をしていなかったので、大学進学のために浪人をする羽目になった。3年生の途中から、「あ、これは浪人だな」と思って早々に家族に宣言した記憶がある。親からすればとんでもない話で、いまの自分が聞いても、それはないぜと叱り飛ばしたくなる話だが、当時の自分は仕方ないじゃないかと開き直っていた。
 大学に進みたいなら、相応のところを選ぶか、ちゃんと高校時代から勉強すればいい話で、浪人するなんて本当に意味がない。でも、あの抜き差しならない一年間はいまの自分を形作ったなァと思っている。しなくてもいいけど、して良かった、というか無駄にはなってないなという感じがある。
 でも経済状況とか、いろいろあるから、これは避けられるなら避けるべき状況ですね。

・一人暮し
 これも、しなくて済むならしないでいいことだと思う。お金がかかるし。でも何でも自分の責任においてやる、という生活は自分に合っていた。社会人になって一年お金を貯めてから実家を出て、2年間だけだったけど、本当に楽しかった。振り返れば、掃除はろくにしないし台所も滅茶苦茶で、ちゃんと生活をしていたとはとても云えないけれど、そこで得たものは多いと思っている。
 テレビもネットもない生活だったけど、全然不便を感じなかったです。

・音楽
 これはhideがインタビューなんかで云っていたことで、読んでいてハッと気付いたのだけど、音楽なんて本当になくても済む代物で、でも、音楽を聴いて人生変わっちゃう人もいるし、なんだかよくわからないものだ。
 いまでも、音楽がないと死んじゃう、と云う人とはあまり仲良くなれないかも知れないと思う一方で、音楽がないと、全然人生が違ってくるな、とも思う。依存するわけでもないけど、寄り添う、それくらいの距離感がある方がいろいろと楽だと思うのだけど、そうでない状況というのもあるのだろう。自分はしあわせなのかも知れないな。

2011/02/05

re:nikki、はじめます/Ziggy Stardust

 新しい日記を始めるにあたって、自己紹介だとかこの日記がどういうものか等を書くのが一般的なのだろうけど、おそらくこの日記を読む人の殆どが、もともと自分の日記を読んでくれていた人か、読んだことはないが知り合いである、という人たちだろうから、それは割愛する。ただ、この日記がどういうものなのか、ということは書いた方がいい気がしている。それは、読者のため、ということでなく、備忘録的な意味で。

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 そもそも、前の日記をやめてから二ヶ月以上が経っていて、その間、次もまたどこかで書きます、と書いてしまったことについて断続的にではあるが考えていた。本当に俺はまた日記を書くのか? 書くなら何を? 書くのは、日記、なのだが、ウェブ上で日記を書くということは単なる日記を書けばいいということではないと思っている。今日こういうことがあってこう思った。良かった。哀しかった。そんなことを書いて何か意味があるのだろうか? そんな風に思う。
 勿論、そういう日記はたくさんあるし、書いた人たちについてどうこう云うつもりはない。それをその人は書きたかったのだから、それでいい。書くことは自由だ。でも、自分が書くにあたっては、考える。ウェブ上に日記を書く、というのは読者を想定した行為の筈で、であるならばそれは独り言であってはいけない。或いは〈つぶやき〉。独り言や呟きというものは、ごく小さな、ささやかなもので、決して大声でなされるものではない。他者に投げかけられる言葉ではない。
 何かを書くなら、読まれることを前提にしたものを書く。では何を書こうか。そこで止まってしまう。フックというか、アクセントがあればいいのではないか。自分が興味を持っているものといえば、カメラ、自転車、音楽、本、料理……。とりとめがない。Macについてでも書く? そういうブログも溢れている。そもそも自分には情報を収集して発信したい、という気持ちが皆無なのだ。そういうものは書けないだろう。
 結局、mixiという場で5年近く日記を書いてきた、そのやり方がいいのではないかと思った。そこではCDやら本やら絵画展なんかのタイトルと画像を載せ、内容はそれに関係あるか少し関係しているか全く関係がないかの文章を書いた。レビューがやりたいのか何なのかわからない、という声はあったけれど、それなりに手応えの様なものは感じていた。直截的でない、紹介。

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 試行錯誤は続くが、とりあえずは書いてみようと思う。すぐに飽きてしまうかも知れないし、変節するかも知れない。それはそれでいいだろう。
 David Bowieの新譜という話はついぞ耳にしなくなったが、40年以上も前からロック音楽の現場で活動を続けている姿は、ひとつの理想である。スタイルが変わる、というのがBowieのスタイルだと云う人もあるが、少なくとも自分は「あ、Bowieの音楽だな」と聴いて思う。寧ろ、ひとつのことしか出来ないで、それを続けていくということなんかに意味があるのかな? なんて思ってしまう。いろいろなやり方を試しているけども、ああ、やっぱりこの人の作品だなァと納得させてしまう、という方が恰好いいと思う。
 もう一度書くが、とりあえずは書いてみようと思う。