2011/03/26

欲望とは/LIVE LOVE

 携帯電話を新しくしようと思って、街へ出た。いまの機種は3年近く使用していて、本体にひびが入ったり薄く汚れていたり、電池の持ちが悪くなっていた。もうそろそろ変えた方がいいだろう。
 3年、という日々を思うと不思議な感じがある。それまではおよそ1年から2年ほどで変更していた筈で、また、新機種が出ると、店頭にどんなものかと買うでもなく見に行ったり、カタログを繰ったりしていた。それがここ数年はそんな気持ちにはならず、興味を失していた。それは多分、時代の変化もあるし、自分の変化もある。一時期までの携帯電話の進化のスピードは著しいものがあったし、そうしたモノへの興味が多分にあったのだ。

 *

 薄暗いホームで電車が来るのを待っていた。節電、ということなのだろうけど、これはこれで十分だと思った。駅に限らず、これまでが明るすぎた。ただ、エスカレーターが止まっているのには、何とも言えないものを感じた。常時動かしている必要もないだろうけど、妊婦や、足が不自由な人からしたら、何もここまで、と思うかも知れない。エレベーターは動いていたが、どこにあるのかわかりにくい。
 車内は非常に混雑していた。皆、街に何をしにいくのだろうか。車内も消灯していて、次の駅のホームに入っていくときは車内が暗くなった。皆、一様に押し黙って揺られている。妙な感じがあった。

 街は街で、人で溢れていた。皆、何を求めて出てきたのか。一週間前は、もう少しまばらだった様な気がする。反動、なのかも知れない。節電とか買い控えとか、自粛とか、被災地を思って云々、そういった事柄は、理念としては嫌いじゃないが、ファッションというかムード、という気がして居心地が悪かった。多分、時期が来ればこういうことも皆、忘れてしまうのだろう。中にはそうでない人もいるだろうけど、多くの人は、きれいな恰好をしたいし、おいしいものを食べたいし、楽しいことをしたいのだ。欲望を知ってしまったら、そこから抜け出すのは容易なことではない。意識的にしろ無意識的にしろ、なんとなく自粛をしなければならないムードによって押さえつけれた欲望は、じきに溢れ出す。
 ただ、まだそういうムードは有効だから、開けっぴろげには出来ず、何となく気まずいというか、アンビバレントな表情が多く見られた。でも、その気まずさすらも、じきに薄まっていくのだろう。

 *

 物欲が強い、と言われたことがある。確かに、それは否定しない。最近の携帯電話への興味は薄れていたが、Appleの製品やカメラなんかについてはわりあい気にしていて、チェックしている。モノ、というものに興味があるのだ。
 欲があるのは悪いことではないと思う。欲によって動いていく何か、それは確かにある。無欲とか無我とか、そういう境地にも興味はあるのだけど、まだそこにいくのは早い気がしている。でも、そういうことと、控えめになること、というのは矛盾しない。エコとか、なんとか。過剰なものがいけないのであって、無理なくそれらが共存していけばいいのだろうけど、それには頭を使って、ひとつひとつ判断していくこと。そういうことが大事なんじゃないのかな、そんなことを、コーヒーを飲みながら考えた。

2011/03/21

地震について/肝心の子供

 前回の日記から、また少し間が空いてしまった。この間、地震の関係でいろいろあって、住んでいるのが東京なので被害という点では幸いにも特段何もなかったのだが、書けずにいた。
 思うこともいろいろある。それで下書きとして、ひとつ地震について書いてやろう、と書き進めていたものがあったのだけど、いまひとつピンと来ない。何というか、ヌルい辛辣さがあって、単に意地悪いというのか、感じ悪いなーなんて思ってしまい、それ以上書けなくなってしまったのだ。

 この日記を始めるにあたって考えていたことは、読んでいい気分になるものにしよう、ということだった。自分のこれまでを振り返ってみると、世の中に対して何かしらの不満を持ち、しかし大きく訴え出るということはせず、時おり、日記でグチグチと垂れ流す……そこに鋭さは、ない。それでも重ねることによってそれなりの厚みは出てくるし、見せ方なんかも工夫できる様にはなってくるのだけど、そんなものを読んでどうなる? という思いも一方にはあった。
 普段、エッセイの類はそんなに読まない。グダッとしたものを読んでどうなるという気持ちからなのだろうけど、たまに、いいものもある。単純におもしろく、ためになる(ためになるというのは、実用的ということではない)。
 それで、そういうのを書けたらいい、書けるのなら、書こう、と思ったのだった。

 ただ、生来の文句癖が一朝一夕で直るものでないし、それはそれで培ってきた持ち味の様なものでもある。それから、せっかく考えたことでもあるので、かいつまんでまとめておこう。グチグチしたものは、お蔵だし、とは言わないけれど、そういうつもりでとりあえず。

 *

 今回の地震のことで思ったのは、やっぱりインターネット、ブログやtwitterの普及には功罪があって、良い面もあるのだけど、自分には負の面が強く目についたなァということだった。個人が意見を発信できること、メディアとなれることは、決して悪いことではないと思う。自分にしても、もう10年近く日記という形で考えを綴ってきた。表現の自由。
 でも、今回、twitterは混乱していた。リツイートというのか、多くの人は善意でそれを流しているのだろうけど、たぶん中には悪意の人もいる。また、善意の行為がすべて良いというわけではなくて、無意識に悪意のそれに加担したり、パニックを引き起こしたりする。もう少し冷静に考えて、行動すればいいのに、という思いでそれを見ていた。
 自由には責任が伴う、というのは当然のことで、でもお手軽に意見を表明できるインターネットの世界では、完全ではないにしても匿名性が保たれているから言いたいことを言うことができて、ニュースなんかにもコメントができて、しかし、その意見に責任を持っている人はどれだけいるのだろう? 言いっぱなしじゃないの? というものも散見している。自分は、そういうことはしたくないな、と思ったのだ。
 批判とかしたくなることは多くあるけれど、言いっぱなしじゃなくて、ではどうしたらいいのか、とか、そういうのが大事なんじゃないかな。そんな風に思うと、地震のことを話題に日記を書くことが、少しためらわれた。

 あと、被災した人たちについては本当に気の毒なことだと思うし、早い復興を願っている。ただ、今回のことに関してそういうメッセージがやたら多く目につくことには、違和感がある。どういうことなのだろう。ニュージーランドの地震とか、殺人事件とか、虐待事件とか、痛ましいニュースは多くあるよ。被害者(被災者)の規模? 或いは身近かどうか、ということなのだろうか。
 まだそのことには考えが深く及んでいないので、このくらいに留めておくけれど、といってそのことに触れないわけにもいかないので、書いておく。

 *

 自分にとって小説を読むことは、単なる暇つぶしではない。暇つぶしにしかならない様な小説はどうでもいいと思っているし、実用的な小説、というのも(あるのかどうかは知らないけれど、)読もうと思わない。考えるヒント、ということなんだろうか。小林秀雄は、まだちゃんと読んだことがない。
 考えることをやめたら、いけないなァと思いつつ、本を読む日々。

2011/03/06

健康/The Man Who Sold The World

 シャワーを浴びていて、ふと、「そういえば、行水みたいに冷たいシャワーを浴びていたことがあったなァ」と思い出した。
 いま住んでいるのは築20年のマンションで、あちこちの設備が古い。ということと関係があるのかどうか、シャワーの温度が一定でない。使い始めのときや、一旦止めて、再度使い始めると、急に冷たくなったり熱くなったりする。そのときも急に冷たくなって、でもちょっと我慢していればすぐに戻るか、などと思いながら浴びていたら、不意に昔のことを思い出したのだ。

 なぜそんなことをしていたのか。それはいつのことだったか。実家にいた頃のことだから、少なくとも4年以上前の話だ。でも、中学生や高校生の頃のことの様にも思えるし、浪人、大学、或いは社会に出てからのことの様にも思う。健康になれる、なんて思って浴びていたのか。すっかり忘れていたことだから詳細はまったく思い出せないのだけど、なんとなく、その頃はわりあい、健康だった気がする。
 健康という話なら、小学生の頃は早朝にマラソンをしていたこともあった。ぬるま湯に塩を溶かしたものを鼻から吸って、鼻うがいをしていたこともあった。意識的に歩くこともしていたし、階段を使う様にしていたこともある。1年くらい前には水泳をしていた。
 いまではどうか。それらがすべて健康に良いかどうかはさて置いて(実際、鼻うがいは素人が安易にやると二次被害に遭うこともあるという。怖い。)、どれも遠ざかっていってしまった。自分をコントロール云々と偉そうに言いながら、実際にはこのザマだ。体もすっかり弱くなってしまった。これを「30歳になったから」と言いのけるのは、恥ずべきことだな。

 *

 ところで前回の日記に『Space Oddity』というDavid Bowieのアルバム名を付したのだけど、これはコントロールするという内容から、彼の「世界を売った男(The Man Who Sold The World)」という曲を想起したためなのだけど、よく考えたらこの曲は同名の『The Man Who Sold The World』というアルバムに入っているので、まったく意味がわからないものになってしまった。阿呆にもほどがある。『Space Oddity』は、これはこれで良いアルバムなのだけど。

 あまり歌詞というのはよく読まないのだけど、「世界を売った男」の“I never lost control”というフレーズが好きだ。

2011/03/04

自分をコントロール/Space Oddity

 少し前に、髪を切った。2年くらいお世話になっていた担当さんが急に退職してしまい、後任の人との相性があまり良くなかったので、店を変えようと思っていた。ただ、なんだか最近は土日も忙しく、思う様に時間が取れないことから、なんとなく伸ばしっぱなしになっていて、見苦しいこと、この上なかった。それでもういい加減、切らなくては、と、ある日思い立って、通勤途中にある小洒落た感じの美容院に行ってみた。結果、悪くない。また次も行ってみようという気になった。

 *

 ところでこの話題はあまりしたことがないのだけど、高校を卒業したあたりから、社会人になって2年目くらいまでは、美容院には行かず自分で切っていた。無印良品ので散髪用の鋏を買って、適当に切っていた。当然、自分でやるのでうまくいくことも失敗することもあった。特に後ろの方は酷いことになることもあった。まあでも、だいたいこんなものかと納得していた。悪くないじゃない。
 自分で切る様になった詳しいきっかけは忘れてしまったけど、1回につき4〜5,000円を払うのがもったいないというのが、理由のひとつだと思う。単にケチ、というのもあるけど、髪を切ると必ず、「なんだか失敗したなァ」と思ったもので、どうして、気に食わないものに対価を支払わなければならないのか、阿呆くさ。そんな風に思っていた。うまい人に巡り会わなかっただけなのかも知れないけど、自分でやった方が早いと思ってしまったのだ。

 それでは、再び美容院に行く様になったきっかけは何か。これはもう、結婚前の顔合わせがそれである。さすがにそれは、と気が引けたのだ。それでどの美容院がいいのか、というのはまったくわからなかったので、適当に入ったところが当たりだった。良かった、と思って2年くらい利用したら担当さんが辞めてしまったのだ。でも、美容院への支払いについては見合うものもある、と気付けたのが良かった。とにかく実感が伴わないとダメだ。

 *

 自分のことは自分でする。この感覚は、それでも根本にあり続ける。責任を取るとか、コントロールするとか。自分を律するとか。好き嫌いのレベルではなく、そうあるべき、という感覚なのだ。とはいえ全然ストイックじゃなくて、けっこうグダグダなのだけど。自分をコントロールできないことは、恐怖だ。
 まあでも、髪を切るぐらいで大袈裟な、とは思わないでもない。