2011/08/31

諦観/夜想曲集


 そういえば、ずいぶん前に読んだ小説がけっこう良かったのだけど、その頃、日記が停滞していたので、タイトルに挙げていなかった。とはいえ、別に書かなかったといって、何か問題があるわけでもない。気分の問題だ。
 本を読むペースと、日記なんかを書くペースは必ずしも一致しない。ペースというか、サイクルということのような気もするけれど、ともかく、何かを読んでそのことについてすぐさま何かを書くということにはならないのだけど、一方で、自分が何かを書きたい、と思うのは、何かしら刺激を受けたときのことだ。書きたい、という気持ちと、書くという行為には何かしらの連関があるのだろうと思うが、気持ちが行動の原動力のすべてではない。コンディションとか、状況とか、その他様々な要因が働く。
 そんなことを書くと、「言い訳ばっかりして甘えてんじゃないよ!」というようなことを言われかねないが、誹られても別にいいという気持ちでもある。言い訳も、場合によっては必要なんじゃないか。

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 しかしグダグダとそんなことを書いていても仕方がないので、次に進む。
 カズオイシグロという作家のことは、名前くらいしか知らなかった。Yがいいと言っていたので、気にはしていたのだけど、どうにも食指が伸びないでいた。あるとき、NHKで彼の特集をやっていた。普段、テレビ番組はほとんど見ない。ついていれば見る。しかし、見ているとあっという間に時間が過ぎてしまって、いけない、と思うのだ。面白い、刺激になるものなら、見て良かったと思えるが、だいたいが後悔する。これはどういうことなのだろう。
 その日は、やはりYが見たいということで、テレビをつけた。『わたしを離さないで』という作品をひとつの軸にした、カズオイシグロのドキュメンタリーだった。結果的には、見て良かったと思った。その内容についてはここでは触れない。ただ、彼の作品を読んでみようという気持ちになった。
 そこで、まずは短篇から読んでみるのが良かろうと思い、この作品を手に取ったという次第。

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 長篇を読んでいないので言い切るのは難しいが、カズオイシグロは、諦観、ということを書いているのではないかと思った。人生の、どうしようもない状況。そこに直面したときに、人はどうすればいいのか。諦める、というのは、何も悪いことではない。むしろ、そういう状況を受け入れる、そうして初めて次のステップが踏める、そういうこともあるのではないか。
 諦める、ということを、最近強く意識している。

2011/08/27

書かなかったことについて書くのは/小説の誕生


 ちょっとまた忙しくなったりして、というか余裕をなくしていたということなのかもしれないけど、しばらく日記から遠ざかっていた。いまは、と言えば、一時期よりは落ち着いたのだけど、それでもこの30年間の中で見ると忙しい方である。本当は日記なんて書いている場合ではないのかもしれない。でも、「あ、そういえば書いてないじゃん。」と気付いてしまって、気付いたらなんだか書かずにはいられなくなってしまった。
 それで、何を書こうか、書かなかったことを書こうか、と思うのだけど、たいてい自分は日記の更新の間に時間が経っていると、これこれこういう理由で書かなかった、とか、書かなかったのはこういうことで、などと小理屈を付けたがる。そういうことを考えるのは嫌いではないし、書くとすっきりするのだけど、読み手の側に立ってみると、鬱陶しくて仕方がないのではないか。一度や二度くらいならともかく、「ああ、また言い訳してらあ。」などと思うだろう。
 実際にそう思う人がどれくらいいるかは分からないけど、自分はいま、そういう風に思った。思った自分を偽ってはいけない。言い訳は、もうやめよう。

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 一ヶ月ぶりに書く日記で、これまで期間が開いてしまった理由(=言い訳)を書かないとなると、どういう話題が適当なのだろうか。

「最近は、人間関係の煩わしさを考えている。」

 そんなことを書いてしまっていいのだろうか。いいも悪いも、これはあなたの日記でしょう、とささやく自分がいる。しかし、読み手の立場っていうのも考えないとね。そんなこと書くと、不快にさせちゃうんじゃないの? そう言う自分もいる。いや、それは読み手の立場を考えているように見せかけて、結局は、読み手からどう見られているか、ということを考えているんだろう、つまり、自分がどう見られているのかを気にしているだけなんだよ。そう断言する自分もいる。もう、何がなんだか分からない。
 確かに、人からどう見られているか、ということは気にしているのだろう。「人間関係の煩わしさ」というのも、或いはその辺りのことと連関があるかもしれない。と、強引に話をつなげてしまったので、このまま続ける。
 人は、社会生活を営むにあたって、多かれ少なかれ、役割を演じる。意識するしないに拘らず、自分の振る舞いを自分でプロデュースする。そこで完結するのなら分かりやすい話なのだろうけど、社会生活なのだから、完結するわけがない。関係性が生まれ、複雑になる。自分がこう振る舞ったら、相手がこう反応するだろう、そうしたら次は自分はこうして、と、相手への期待が生じるのだ。
 そういうのが得意な人もいるのだろう。演じて、期待して、さらに演じて。でも、自分なんかは人からよく思われたい気持ちもあるが、面倒くさがりでもあるから、期待されていることを感じてしまうと、途端に嫌になる。ここで打ち止めでいいよ、面倒だから。そんな風に思ってしまう。期待しないでいいからさ。
 もっとこう、フラットな関係性はつくれないものだろうか。裏読みしたり、先の先を考えたり。そういうことじゃなくて、もっとフラットな。

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 思考することからも遠ざかっていた。もっと腰を据えて考えなきゃならない。友人Sを見習って、もっと思考するのだ。