2012/01/29

断片/ピース


 忘れた頃に更新しているようでは、来てくれる人も来なくなってしまう。そういうことはよくわかっているつもりなのだが、ペースは変わらない。むしろ、遅れ気味だ。
 しかし、と思う。書きたいのか、読んでもらいたいのか。書くことと読まれることは対になるもので、コミュニケーションのひとつの形、という風にも言えるかもしれないが、読まれないことを前提にした書きものはあり得ない。ごくプライベートな日記であっても、おそらく誰かしらに読まれることは、想定されて書かれるのが普通なのではないか。普通、という言い方は好まないところだが。

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 断片的な書き方は好きじゃなかったはずなのだけど、いつしかそういうスタイルになってしまった。スタイル、と書くと何やら恰好よく響く。単にまとまった書き方ができなくなったと言うこと。

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 おもしろさの定義がわからなくなってきている。おもしろい、いいもの、そういう感覚は不変なのか。

2011/12/31

年の瀬/LET IT BE...NAKED

 年末である。毎年同じことを言っているような気もするが、あっという間に一年が過ぎてしまった。今年は、Kが産まれて家族が増えた。それに尽きる。三週間弱だけど休みも取れたし、やはり、プライベートな部分が非常に大事だなァ、それを犠牲にして何が社会人だ、そんな風に思う。
 一方で、インプットをあまりしなかったような気がする。これもここ数年、言っているような気がする。かと言ってアウトプットは? と言うと、これもまた、あまり。インプットもアウトプットも怠りながら、「充実している」とは言えない。なかなか、難しいものだ。

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 ものを書く、という行為を特別視しているのか。よくわからない。

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 来年はベースを固め直す一年になりそうだ。ボチボチやっていかねば。

2011/12/24

年末です/暇と退屈の倫理学


 以前よりインターネットにアクセスする頻度が減った。一時期、ネット依存症なんじゃないかと恐れたこともあったのだけど、単に新し物好きだっただけで、いまは別になくても平気。依存症なんかではないんだろう。
 思えば、アルコールだって、泥酔してひどい目にあって禁酒宣言をした時期も、Yのつわりの時期も、なければないでどうにかなった。タバコにしても、学生の頃に母に見つかって「あんたは意志が弱いからやめられなくて云々」と言われたが、いつでもやめられるぜ、と思って実際にやめた。
 ネットも酒もタバコも、他にも音楽でも本でもなんでもそうだけど、あればあったでいいし、なきゃないで別にいい。それって満ち足りているからなんじゃない? なんて言われることもあるけど、どうなんだろう。そうかもしれないけど、そういうことじゃなくて、もともとの質なんだと思う。

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 本を読もうと思って、最近いろいろ気にするようにしている。書店でたまたま目にしたのが、國分功一郎氏の名前。「『暇と退屈の倫理学』?おもしろそうじゃない。」
 少しずつ、読み進めている。自分のこういうアンテナの感度は、落としてはいけないと思う。

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 なにかを書くということは嫌いじゃないが、これは自己顕示欲とは少し違う気がする。僕を見て、あたしを見て。そういう欲求。少し、違うかな。ないわけじゃないけど。

2011/12/17

31歳になって/PAST MASTERS


 今月、31歳になった。
 ここ数年は、自分で自分にプレゼントを買ったりとか、休みをとってひとりで過ごしたりとか、誕生日をハレの日と位置づけて過ごすように意識していたのだけど、ことしはそういう風にはしなかった。

 これまでは、おそらく自分の中に20代から30代に近づいていくというある種の高揚感があって、普段とは少し違った風にしてやろう、そんな気持ちでいたのが、30歳を迎えてひと区切りついたのかもしれない。
 昨年は、MacBook Airを買って、カレーを食べて都内を自転車で走り回った。銀座のApple store、幼稚園まで住んでいたところ(アパートは取り壊されていた。)、原美術館、恵比寿ガーデンプレイスのスターバックス。夜、Yと待ち合わせをして、時計を買ってもらった。29歳はけっこうハードな一年だったと記憶しているが、30歳の一年は、そういう初日を過ごせて、非常に充実した日々だったと思う。息子も産まれた。それなりにハードな日々でもあったが、良い日々を過ごせた。
 それで迎えた31歳、何か自分の中で満足してしまったのか、落ち着いた心持ちだった。自分への関心はとりあえずはいいよ、家族へそれを向けよう。そういうことなのかもしれない。

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 アンチエイジング、ということに抵抗感がある。これは以前にも書いたかもしれないが、ことさら自然の流れに反するのは、妙な感じがするのだ。体とか、脳とか、放っておけば衰える。老化を退化と考えるのは難しいところがある。年齢に適正な体、脳、というのがあるのかどうか。脳年齢とか骨の状態とかよく耳にする。そういう科学的? なことはさておくにしても、感覚として、維持しなければならない部分は維持しつつ、しかし過剰に抵抗する、若作り、というのは違うんじゃないのか。
 もしかしたら、男性だから、ということかもしれない。またこんなこと書くとジェンダーがどうとか、オダ君らしくないんじゃない? なんて言われるかもしれないけど、あえてこういう書き方をしてみる。やはり女性にそういう向きが多いというのは否定できない。後は、既婚者とか、子供がいるとか、そういう人と、独身、子供がいない人と、少し感触が違う。
 考え方、感じ方は人それぞれだから別にいいけど、やはり20代の頃の体力と、30代に入ったいまとでは、違うものがある。極端に衰えないようにはしたいとは思うが、受け入れるところは受け入れないと、いけないのではないか。人生は待ってはくれないのだ。
 というわけで、無理のない、ということをキーワードに30代は過ごしたいな、と思っている。似たようなことをずっと言っている気もする。

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 The Beatlesを聴くようになるなんて、昔は考えたこともなかった。そのうち、ジャズとかクラシックとかにどっぷりと浸かるようになることも、あるのかもしれないね。

2011/11/20

結婚式/After The Apples


 妹が結婚した。
 なかなかいい結婚式だった。ついうっかり涙ぐむシーンもあって、案外オレも人間臭い面があるんだなぁ、と自分で自分に驚いた。泣かないでしょう、と思っていたのだ。
 それで、いったいどういうところで涙ぐんだのかと言うと、も何もないのだが、定石の「両親への手紙」。淡々としてて笑いもあって、しかしうまい手紙だった。ずるいなぁと思ったものだ。

 ただ、涙ぐんだ理由みたいなものが、よくわからない。どうして手紙で泣くのだろうか。結婚なんて、哀しいものでは決してなくて、むしろ喜ばしいことだし、よくあるような「妹を取られた!」なんて発想はまるでない。兄妹仲は良い方だと思うが、普段から連絡を取り合ったりはしていない。それにもともと、お家、という感覚が希薄な方なので、嫁に行ってしまったとか、取られたとか、そういう風には考えない。自分たちの結婚のときもそう思っていた。
 でも、そういう場面で涙ぐんでしまうのは、お約束事というか、コードというものなんじゃないか、と考えている。暗転した会場で、スポットライトが新婦に当たる。その中で、「お母さん、あのとき○○でしたね」なんてしみじみ話されたら、あんたそりゃ泣くでしょう、という感覚。その前提でもって臨むものだから、泣かないわけにはいかない。ちなみに自分の結婚式のときも、Yの読む手紙で涙ぐんでしまった。でもやはりそれは、哀しいとか嬉しいとか感情から来る涙ではない。

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 コードに乗っかって泣くのは嫌いじゃない一方で、お涙ちょうだいみたいな話、小説とか映画とかには興味ない。この辺のことは、まだうまく言語化できない。言語化できない、自分の底が見えてしまう、というのはけっこうキツい。でもそのキツさのことに言及すると長くなりそうなので、うまくまとめられそうになったらまた書きたい。何の話だったか。お涙ちょうだいものには興味がない、という話だ。興味がないからといってコードが通じないということではないし、コードが通じるからといって興味がある、好きだ、ということにもならない。
 そんな内容のことは、大学の頃はよく考えていた。直接話題にしたわけではないけど、Sさんともよく話したものだ。その頃はしょっちゅうそんなことを考えていたものだから、たぶんいまより言語化はできていたはずだ。いま、できていないのは、そういう筋肉を使っていないからだ。使わない筋肉はすぐに衰える。
 この日記も、連続しない思考をそのままトレースしているような感じで書いてしまっていて、それでいいのかとも思うが、そうとしか書けない、やれない現在のありのままを、書く。そうして次のステップに進む、進んでいきたい。そんな風に思う。

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 涙ぐんだ、ということは横に置いたとしても、いい結婚式だった。よく考えて作ったんだろう、思いが伝わってきた。パッケージ化された結婚式とは違っていた。パッケージに包まれることは楽なんだけど、面白みに欠ける。面白みに欠ける結婚式があったとしても、泣きのコードが挟まれていれば、多分泣く。でも、面白みに欠けるものを、いい結婚式だとは思わない。
 いいか悪いかというのは、泣けるかどうかということじゃなくて、揺さぶられるかどうかということ。誰かを揺さぶるには、考えることなしでは難しい。
 ともかく。お疲れさまでした、ありがとう。そしておめでとう。妹たちにはそう言いたい。