妹が結婚した。
なかなかいい結婚式だった。ついうっかり涙ぐむシーンもあって、案外オレも人間臭い面があるんだなぁ、と自分で自分に驚いた。泣かないでしょう、と思っていたのだ。
それで、いったいどういうところで涙ぐんだのかと言うと、も何もないのだが、定石の「両親への手紙」。淡々としてて笑いもあって、しかしうまい手紙だった。ずるいなぁと思ったものだ。
ただ、涙ぐんだ理由みたいなものが、よくわからない。どうして手紙で泣くのだろうか。結婚なんて、哀しいものでは決してなくて、むしろ喜ばしいことだし、よくあるような「妹を取られた!」なんて発想はまるでない。兄妹仲は良い方だと思うが、普段から連絡を取り合ったりはしていない。それにもともと、お家、という感覚が希薄な方なので、嫁に行ってしまったとか、取られたとか、そういう風には考えない。自分たちの結婚のときもそう思っていた。
でも、そういう場面で涙ぐんでしまうのは、お約束事というか、コードというものなんじゃないか、と考えている。暗転した会場で、スポットライトが新婦に当たる。その中で、「お母さん、あのとき○○でしたね」なんてしみじみ話されたら、あんたそりゃ泣くでしょう、という感覚。その前提でもって臨むものだから、泣かないわけにはいかない。ちなみに自分の結婚式のときも、Yの読む手紙で涙ぐんでしまった。でもやはりそれは、哀しいとか嬉しいとか感情から来る涙ではない。
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コードに乗っかって泣くのは嫌いじゃない一方で、お涙ちょうだいみたいな話、小説とか映画とかには興味ない。この辺のことは、まだうまく言語化できない。言語化できない、自分の底が見えてしまう、というのはけっこうキツい。でもそのキツさのことに言及すると長くなりそうなので、うまくまとめられそうになったらまた書きたい。何の話だったか。お涙ちょうだいものには興味がない、という話だ。興味がないからといってコードが通じないということではないし、コードが通じるからといって興味がある、好きだ、ということにもならない。
そんな内容のことは、大学の頃はよく考えていた。直接話題にしたわけではないけど、Sさんともよく話したものだ。その頃はしょっちゅうそんなことを考えていたものだから、たぶんいまより言語化はできていたはずだ。いま、できていないのは、そういう筋肉を使っていないからだ。使わない筋肉はすぐに衰える。
この日記も、連続しない思考をそのままトレースしているような感じで書いてしまっていて、それでいいのかとも思うが、そうとしか書けない、やれない現在のありのままを、書く。そうして次のステップに進む、進んでいきたい。そんな風に思う。
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涙ぐんだ、ということは横に置いたとしても、いい結婚式だった。よく考えて作ったんだろう、思いが伝わってきた。パッケージ化された結婚式とは違っていた。パッケージに包まれることは楽なんだけど、面白みに欠ける。面白みに欠ける結婚式があったとしても、泣きのコードが挟まれていれば、多分泣く。でも、面白みに欠けるものを、いい結婚式だとは思わない。
いいか悪いかというのは、泣けるかどうかということじゃなくて、揺さぶられるかどうかということ。誰かを揺さぶるには、考えることなしでは難しい。
ともかく。お疲れさまでした、ありがとう。そしておめでとう。妹たちにはそう言いたい。