2011/11/20

結婚式/After The Apples


 妹が結婚した。
 なかなかいい結婚式だった。ついうっかり涙ぐむシーンもあって、案外オレも人間臭い面があるんだなぁ、と自分で自分に驚いた。泣かないでしょう、と思っていたのだ。
 それで、いったいどういうところで涙ぐんだのかと言うと、も何もないのだが、定石の「両親への手紙」。淡々としてて笑いもあって、しかしうまい手紙だった。ずるいなぁと思ったものだ。

 ただ、涙ぐんだ理由みたいなものが、よくわからない。どうして手紙で泣くのだろうか。結婚なんて、哀しいものでは決してなくて、むしろ喜ばしいことだし、よくあるような「妹を取られた!」なんて発想はまるでない。兄妹仲は良い方だと思うが、普段から連絡を取り合ったりはしていない。それにもともと、お家、という感覚が希薄な方なので、嫁に行ってしまったとか、取られたとか、そういう風には考えない。自分たちの結婚のときもそう思っていた。
 でも、そういう場面で涙ぐんでしまうのは、お約束事というか、コードというものなんじゃないか、と考えている。暗転した会場で、スポットライトが新婦に当たる。その中で、「お母さん、あのとき○○でしたね」なんてしみじみ話されたら、あんたそりゃ泣くでしょう、という感覚。その前提でもって臨むものだから、泣かないわけにはいかない。ちなみに自分の結婚式のときも、Yの読む手紙で涙ぐんでしまった。でもやはりそれは、哀しいとか嬉しいとか感情から来る涙ではない。

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 コードに乗っかって泣くのは嫌いじゃない一方で、お涙ちょうだいみたいな話、小説とか映画とかには興味ない。この辺のことは、まだうまく言語化できない。言語化できない、自分の底が見えてしまう、というのはけっこうキツい。でもそのキツさのことに言及すると長くなりそうなので、うまくまとめられそうになったらまた書きたい。何の話だったか。お涙ちょうだいものには興味がない、という話だ。興味がないからといってコードが通じないということではないし、コードが通じるからといって興味がある、好きだ、ということにもならない。
 そんな内容のことは、大学の頃はよく考えていた。直接話題にしたわけではないけど、Sさんともよく話したものだ。その頃はしょっちゅうそんなことを考えていたものだから、たぶんいまより言語化はできていたはずだ。いま、できていないのは、そういう筋肉を使っていないからだ。使わない筋肉はすぐに衰える。
 この日記も、連続しない思考をそのままトレースしているような感じで書いてしまっていて、それでいいのかとも思うが、そうとしか書けない、やれない現在のありのままを、書く。そうして次のステップに進む、進んでいきたい。そんな風に思う。

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 涙ぐんだ、ということは横に置いたとしても、いい結婚式だった。よく考えて作ったんだろう、思いが伝わってきた。パッケージ化された結婚式とは違っていた。パッケージに包まれることは楽なんだけど、面白みに欠ける。面白みに欠ける結婚式があったとしても、泣きのコードが挟まれていれば、多分泣く。でも、面白みに欠けるものを、いい結婚式だとは思わない。
 いいか悪いかというのは、泣けるかどうかということじゃなくて、揺さぶられるかどうかということ。誰かを揺さぶるには、考えることなしでは難しい。
 ともかく。お疲れさまでした、ありがとう。そしておめでとう。妹たちにはそう言いたい。

2011/11/03

人付き合いとか/いやらしさは美しさ


 ○○男子/女子とか、○○系とか、なんというか、ブームっぽい言い回しがどうにも気に食わない。グチグチ批判めいたことを書くのはやめていこう、と思ってはいるので、セーブして書きたいのだけど、どうにもやりづらさを覚えることが多いのも事実なのだ。
 もともと料理は嫌いじゃないし、弁当をつくるのも時間に余裕があるならやりたい方なので、その辺で「オダくんて弁当男子だよね」とか「草食系だよねー」とか、あーもう僕はそういうのはいいんで放っといてください! と言いたくなることも多かったけど、最近はそういう人も周りにあまりいなくなったので良かった。が、この前「オダさんはイクメンだね」と言われて、おおう、と唸ってしまった。世の中いろいろ言葉が産まれるものだ。まあ、料理したり育児したりという男性が少なかったから、いまはそういう人が増えてきて、ということなんだろうけど、早くそれが当たり前の世の中にならないものか。ならないかな。

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 やりたいこととか言いたいことと、人付き合い、世渡り、みたいなことはなかなか一致しなくて、でもそういうことが一致したり、うまくやれる人はそれなりにいるはずで、どうして我々はうまくできないんだろうか、ということを大学時代にSさんと話したことがある。
 詳細は忘れてしまったけど、音楽を聴いたり本を読んだり、ということと絡めた内容だった気がするけど、言いたいことが先行したりする人、人付き合いで悩んだりする人が音楽とか本とかにいくわけで、そういうのに悩まない人は音楽や本がなくても生きていける。
 僕は音楽や本に救いをもとめる触れ方はしてこなかったのだけど、たぶん人付き合いとかがうまくやれる人だったら、音楽の聴き方も違ったんだろうな、と思う。というか聴くこともなかったかも知れない。
 早川義夫氏の日記を読んでいると、ああこの人も、生きづらかったんだろうなあと思ってしまう。いつかライヴを観てみたいな。しばらく難しそうだ。