2011/06/26

わかり合えないこと/顰蹙文学カフェ

 よく思われたい、評価されたい、という感情。自己を肯定してほしいという気持ちは、普遍的なものなのだろうか。程度の差はあるのだろうけど、多くの人は持っているだろう感情。自分の中にも、ある。
 ただ、誰も彼もが自分のことをわかってくれる、評価してくれるなんてことはあり得ないことだ、幻想だ、とも思っている。多様な価値観がある中で、全ての人に受け容れられることがあるわけがない。好みもある。ただ、そのあたりの認識は、個々人によって異なるだろう。

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「わかる人にだけわかってもらえばいい」となるのか、「それでもなお、万人に認めさせてやる」となるのかは志向性の違いだから置いておく。でも、「わかってもらえないこともある」という感覚を持っているということは、非常に大事なんじゃないか。
 受け容れられないこともある、と認識することは、なかなかハードルが高い。早川義夫の本に「わかり合いたかった人とわかり合えなかった寂しさに比べれば、独りでいることなどちっとも寂しくない」という記述がある。
 独りでいるのが耐えられないという人もいるが、早川さんは、独りでいることよりわかり合うことの方が大事だし、そうならなかったときの痛みの方がはるかに大きいと考えている。
 自分にとっては、独りでいることは、淋しいことではない。「それはオダくんが本当の“独り”というのを知らないから言える台詞だよ。」そう言われたらそうなのかもしれないけど、想像してみても、独りの状況は、さほどつらいものではない。
 では、わかり合えない淋しさは、どうだろう。わかり合うことの難しさを前提としていれば、それも大した話ではない気もする。つまりは期待を裏切られたことの辛さ、ということなのではないか。わかり合えるはずだという、期待。

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 顰蹙を是とする姿勢は、或いは、わかり合うことは難しいとした上で、評価されたいと思うことと同義なのではないか。
 いずれにしても、あざとさは残る。

2011/06/19

書くことに対しての気持ち、距離/RE:SUPERCAR 2

 波の触れ幅が激しくていけない。
 波? 何の? いろいろあって、気持ちも体調も、プライベートも仕事も、まあいろいろだ。そういう、波の悪い状態のときは、日記なんて書いてられん! という風になるし、逆に良くなってくると日記を書いていないことに対する罪悪感、と書くと大袈裟になってしまうが、自己嫌悪と言うのか、だめだなあ、という気持ち。もっと気楽にやれば、と書いたばかりなのにね。という気持ち。

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 スーパーカーというバンドが好きだった。いまは、インターネットがあっていろいろなハードルが低くなって、良い意味での妄想、空想の領域が、ある意味に於いて、なくなってしまった様に思う。多感な時期に触れる、ロック音楽についての気持ちというのは、空想や妄想の部分が大きいのではないか。
 いまはそういう部分とは、少し離れた地点から、音楽を聴いている気がする。